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INTERVIEW

Japanese

SILYUS

2017年05月号掲載

SILYUS

Interviewer:杉江 由紀

地球から見える最も明るい恒星、それがシリウスだと言うが。この名を自らに冠して活動するアーティストが、Eggs presentsのオーディション"ワン!チャン!!~ビクターロック祭り2017への挑戦~"にてグランプリを獲得したSILYUSなのである。ステレオタイプなHiphop/R&B系のスタイルとは明らかに一線を画する、洗練された音楽性と存在感。それは3月に幕張メッセにて開催されたイベント"ビクターロック祭り2017"でのステージングにおいても、おおいに発揮されたという。かつて患った心の病を音楽と接し続けることで無事克服したという過去も持つSILYUSだけに、最新音源『Monaural』を筆頭とした彼の生み出す音楽やコトバには、闇の世界をも照らし出す強い光が宿っているのだ。

-SILYUSさんは、先だってのEggs presentsの"ワン!チャン!!"オーディションにてグランプリを獲得されました。まずはそんなSILYUSさんのルーツを探るべく、最初に音楽への興味を持つようになったきっかけから教えてください。

僕の場合、最初に興味を持った音楽自体がHiphopだったんですよ。小学6年生のころによく一緒にスケートボードをやっていた友達が、BLACK EYED PEASNujabesなんかをよく聴いていたので、その影響を受けたんです。そのあとには、日本語ラップの存在も知りました。もともと古典的な洋楽ラップばかりを聴いていただけに初めてSALUさんの1stアルバムを聴いたときには"日本語を使って、英語のようなフロウでラップをされることがすごく斬新!!"と感じましたね。そして、そこで初めて"日本語でこれだけカッコいいことをやっている人がいるんなら、僕もやってみたい"という意識を持つようになりました。

-その意識を持って以降、SILYUSさんがまず始めたのはどんなことでしたか。

友達とフリースタイルをしたり、YouTubeにあるアリモノのトラックに歌詞をつけたりして、誰が一番ヤバいかみたいなことを競い合ったりしていましたね。そういう遊びをしているうちに、だんだんと本気になっていって、気づいたら自分でトラックを作るようになっていましたし、気づいたら幕張メッセのステージに立つことにもなっていたんです。

-幕張メッセでのステージとは、3月に開催された"ビクターロック祭り2017"のことですね。

そうなんですよ。僕以外はバンドさんばかりだったにもかかわらず、奇跡的に"ワン!チャン!!"オーディションのグランプリを獲ることができた結果、そうした貴重な機会もいただくことができましたし、この間もCONNECTONE(※ビクターエンタテインメントのレーベル)のイベントである"CONNECTONE NIGHT"に出させていただく機会がありまして、そこでは憧れの大先輩 RHYMESTERさんとお会いすることもできたんです。そのとき、ようやく"あれ? 僕、実は今結構すごいところにおるんかな!?"ということを自覚しました(笑)。

-先ほど、SILYUSさんは"気づいたら自分でトラックも作るようになっていた"とおっしゃっていました。そこに明確な動機はなかったのですか?

動機ということで言えば、高校生のときに人間関係で悩んだなかで、あまり学校に行かなくなってしまったり、ひきこもりになってしまったりしたことが、それにあたるんだと思います。僕はいわゆる進学校に行っていたので、勉強のレベルもかなり高かったりしたせいか、とにかくいろいろな面で周りにちゃんと"ついていけなくなってしまった"のがその原因でした。でも、そんなときにもずっと音楽は聴き続けていて、その一方では大量の歌詞も書いていたりしたんですよ。そうしているうちに、ついには歌詞を書くだけでは物足りなくなってきて、手元にあったパソコンでトラックを作り始めることになったんです。

-その当時のSILYUSさんにとっては音楽を聴くことが救いであったのでしょうし、同時に詞を書いたりトラックを生み出すことでも、ご自身の内面バランスをなんとか保っていたのかもしれませんね。

逆に言うと、そのくらいしかやれることがなかったんです。基本的にはひきこもっていましたし、たまに学校に行っても完全に"閉ざしちゃって"いたので、そうやって詞を書いたりトラックを作ることだけが唯一、自分にとって言いたいことや思っていることをかたちにできる手段になっていましたから......。実際、お医者さんからもその当時は重度のうつ病と診断されていて、無理をして学校に行くと過呼吸で発作を起したりもしてましたし、"今すぐ入院してもいいくらい"とまで言われていたくらいなんですよ。今思えばすべてがもう笑い話になっているものの、そのころの僕は死にかけていましたね。というか、自ら死のうとしたりもしました。