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Japanese

フラカン和義のロックンロール600万ボルト

Skream! マガジン 2015年10月号掲載

2015.09.01 @CLUB CITTA'川崎

Writer 天野 史彬

ロックンロールはこんがらがっている。何故なら、この音楽は"確かなアイデンティティを持たない"という、その"不確かさ"にこそアイデンティティを見出しているからである。そもそもこの音楽は、その発祥を辿ったときに見えてくる、"黒人のリズム&ブルースを白人が演奏した"という構図自体がこんがらがっているのだ。でも、こんがらがっているからこそ、ロックロールは黒人文化における"ブルース"という根っこに直接リンクしていない白人のキッズたち、あるいは僕らのような日本人にだって意味を持つ音楽になった。ロックンロールのこんがらがり具合は、学校にも行けるし食べるものも着るものもある、だけど、毎日不満と不安を抱えながら生きる、現代の僕らのこんがらがり具合に見事にフィットしたのである。
そんな、こんがらがった僕らの音楽をタイトルに冠した、フラワーカンパニーズと斉藤和義による対バン・イベント、"フラカン和義のロックンロール600万ボルト"がCLUB CITTA'川崎で開催された。何故、タイトルが"600万ボルト"なのかと言えば、このイベントの開催が6回目だから。第1回は2005年、渋谷duo music exchangeにて、"フラカン和義のロックンロール100万ボルト"としてオールナイトで行われたのだという。調べたところによると、フラカン和義の他にも曽我部恵一バンドやSCOOBIE DOも参加していて、今回のMCで語られたところによれば、ステージ上でジェンガをやったりしていたそうです。そんな(どんな?)イベントの、6回目の開催である。
 
フラカン和義の5人によるゆる~い司会進行がありつつ(フラカン鈴木は白スーツで決めていたけど)、この日のトップバッターは、ゲストのハルカトミユキ。40過ぎのおじさんたちのイベントに、うら若き女性の登場である。今、すごく失礼なことを書いた気がする。まぁいいや。しかしながら、1曲目にフラカンのカバー「感情七号線」を、そして2曲目に「ニュートンの林檎」を持ってきたところに、ハルカトミユキにも通底するロックンロールのこんがらがり具合を実感した。「感情七号線」も「ニュートンの林檎」も、言わば"負け組"の視点から綴られた歌である。いや、もっと言えば、世間が押しつけてくる"勝ち/負け"というレッテルに一切の価値を見出すことのできない人間の歌である。競争心とか、社会性とか、それって本当に必要か?と、みなが歩くレールを外れて自分たちの道を歩く現代社会のアウトサイダーの姿。それが刻まれたこの2曲を若い世代が歌い、イベントの幕が開けたことに大きな意味を感じた。ロックンロールはずっと続いているのだ。
 
続いて登場したのは、斉藤和義。初っ端の司会進行では1番ゆる~い空気を醸し出していた彼だが、ギターを持ってステージに立てば、そのゆるさの端々から殺気がほとばしり始める。名曲「ずっと好きだった」に始まり、直近のシングル曲「傷口」と「攻めていこーぜ!」も披露。彼の楽曲は、音源では、そのメロディやハーモニーの精錬とした響きに心奪われるが、ライヴで聴けば、グルーヴィなリフとビートに一直線に身体を突き動かされるのが痛快だ。そしてやっぱり、斉藤のロックンロールには、男であるが故の哀愁が、決して消えることのないロマンティシズムとダンディズムがある。"ずっと好きだった"という言葉の奥からは"好きだと言えなかった"という悲しみが零れ落ち、この日も演奏した楽曲でもあるが"やさしくなりたい"と言われれば、そこには"やさしくできない"というジレンマが露わになる。伝えたいけど伝えられない。気持ちと裏腹に動く身体。身体とは裏腹にある気持ち。そう簡単に本音は言わないし、言えない。不器用で、でも上品で、格好つかなくても格好つけていて、その姿が最高にかっこよくて。淡々とした平熱のテンションで、下ネタをはさみながら、それでもステージの中央で頑としてギターを掻き鳴らし歌う斉藤の姿は、こんがらがったロックンロールにロマンを見出し、それをひとつの"美学"として背負い続けてきた男の姿、そのものだった。
 
そして最後はフラカン。フルスロットルの「マイ・スウィート・ソウル」でライヴはスタート。斉藤がステージの真ん中でドンッと構えていたのに対して、鈴木圭介(Vo)は相変わらず動く動く。グレートマエカワ(Ba)も動く動く。この動きっぷりを見て改めて、フラカンにとってのロックンロールとは、本質的に"パンク"なのだと思った。ここに斉藤とフラカンの、ロックンロールに対する観点の違いがあるような気がする。振り返ると、70年代後半に登場したパンクとは、極端に言うなれば、ロックンロールがチンピラと芸大生のものになったムーヴメントである。パンク世代にとってのロックンロールとは、"美学"よりも"主張"だったのだ。政治的なものであれ、個人的なものであれ、自分たちが言いたいことを言い、伝えたいことを伝えるためのアートフォームとしてのロックンロール=パンク。この精神性が根底にあるからこそ、フラカンのロックンロールは、どこまでも馬鹿正直で、本音だ。弱音も吐けば愚痴も言う。夢も語れば愛も叫ぶ。この日は、日記のように綴られる心象が極限なくらいに生々しく吐露された名曲「東京タワー」を聴けたのがよかった。留めようと思っても溢れ出てしまう、その音と言葉の渦に巻き込まれながら、自分とフラカンの心と心がもつれ合って、こんがらがっていくような感覚に襲われた。
アンコールは、フラカンと斉藤の共作曲である「この世は好物だらけだぜ」に始まり、斉藤の「あの高い場所へ」(この曲の音源の演奏とコーラスにはフラカンが参加している)、「社会生活不適合者」、さらにはフラカンの「深夜高速」をフラカン和義のコラボレーションで披露。ラストを飾ったのはそれぞれの代表曲「真冬の盆踊り」と「歩いて帰ろう」で、これにはハルカトミユキのふたりも参加、お祭り状態と相成った。先にも書いたように、フラカンと斉藤には似て非なるロックンロール観が根づいているが、この2組を続けて観ることで、ロックンロールが時代と共に変化しながら、しかし常にこんがらがった誰かの音楽であり続けた歴史を感じたし、フラカンと斉藤という2組が相まみえることで生まれる"等身大だけどロマンティック"な、こんがらがった感覚がとても心地のいい夜だった。700万ボルトも期待しています。

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