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INTERVIEW

Japanese

小林太郎 × Academic BANANA

2019年03月号掲載

小林太郎 × Academic BANANA

昨年、それまでの所属事務所を離れ自身のレーベル"MOTHERSMILK RECORD"を立ち上げ、EP『SQUEEZE』をリリースした小林太郎。そして、そのレーベル・メイトであり、同じく昨年1st EP『東京』をリリースしたバンド Academic BANANAが、スプリットEP『ESCAPE』をリリース。ソロのロック・アーティストとして馬力のある轟音サウンドとパワフルなヴォーカルを聴かせる小林太郎だが、今回はスプリットでもありつつ、"ネオ歌謡曲"と称する洒脱なポップ・ミュージックを奏でるAcademic BANANAと共同で音を作り上げることで、新たな扉を開いている作品でもある。それぞれの個性は確立しつつ、ほどよく影響をし合った内容。それは彼ら自身の関係性にもありそうだ。

小林 太郎
Academic BANANA:齋藤 知輝(Vo) 大浦 史記(Pf) 萩原 健太(Ba) 清水 裕貴(Dr)
インタビュアー:吉羽 さおり

-もともと小林太郎さんとAcademic BANANAはどんなふうに出会ったんですか。

小林:10年くらい前にテレビ朝日で"ストリートファイターズ"という深夜の音楽番組があって、その番組で行われていた高校生限定のオーディション・イベントのときのメンバーなんですよね。

齋藤:当時太郎は静岡の代表で、ベースの健太とドラムの清水と"小林太郎とマサカリカツイダーズ"というバンドで出ていて。僕は別のバンドで広島代表で出ていて、そこで知り合ったのが出会いのきっかけですね。

-10代のころからの仲だったんですね。

齋藤:そのあと太郎はすぐに上京したんだよね? 僕も高校を卒業してすぐに上京していて。東京に友達もいないし、よく一緒にライヴを観に行って、グダグダと朝までマックに溜まるっていうのをふたりでしてたんです。

小林:やってることは今もあまり変わってないです(笑)。

-ずっとお互いのことは意識していたんですか。今どんな状況なのかな、どんな音楽をやっているのかなとか。

小林:意識していたかはわからないですけどね。

齋藤:途中からは太郎がデビューして忙しくなってきて、年に1、2回会えるくらいだったんです。

小林:上京してすぐはよく一緒につるんでいたんですけど、それぞれの活動が始まってくるとあまり会えなくなって。ちょっと落ち着いてきた2~3年前くらいからまたよく会うようになって、いろんな話をするようになったんですよね。

-大浦さんとはどのタイミングで出会うんですか。

大浦:僕は最近ですね。1年ちょっと前?

齋藤:そもそもの流れを話すと、僕と太郎が事務所を独立するって話になったときに、僕は実は反対だったんです。

小林:そうだったの?

齋藤:という話をよく居酒屋でしていて。じゃあ音楽どうするの? ってなったときに、"音楽はやる"って言うんだけど、10代から大きな事務所でやってるから、右も左も、前も後ろもってくらいのレベルでわかってなかったんですよね。最初はライヴの物販とか手伝うよっていうノリだったんです。そうしてるうちに、リリースをするからレーベルを作ろうってことになったんです。僕は、彼が独立するくらいの時期に3~4年やっていたユニットを解散したんですよ。そのときにいち早く"一緒になんかやろうよ"って言ってくれたのが、ドラムの清水で。じゃあ、僕は僕で新しくバンドをやります、太郎は太郎で独立してやりますっていうことで、新しくレーベルを作ってやっていこうかという話になったんです。僕はバンドにピアニストを入れたくて、いろんなピアニストを紹介してもらったんですけど、なんか違うなっていうのがあって。もともとピアノの大浦のことはネット上で知っていて、彼のバンドが活動休止して大浦が音楽をやめていたのも知っていて。

大浦:当時は、片田舎で釣りをして過ごしていました。隠居生活みたいな感じで。

-それで声を掛けたと。

齋藤:それで一緒にスタジオに入ったりしたという流れで。

大浦:送ってくれたデモがすごく良かったんです。今回のアルバムにも入っている「ミッドタウン」という曲が入っていて。

-太郎さんは、所属していた事務所を独立したときって、自分でレーベルをやろうと考えていたんですか。

小林:まったくなかったですね。

齋藤:すごいですよね(笑)。

小林:今も齋藤に手伝ってもらったりしながら、今回こういうCDを出せたり、インタビューができてるということなんです。

-齋藤さんは、レーベルを運営するノウハウがあったんですね。

齋藤:もともとの事務所にいたころから、自分で頑張らないといけない部分はあったんですよね。それはそれで良かったかな。今は、どんな職種でもそうですけど、セルフ・プロデュースが大事でもあって、そこにどれだけいろんな人が力を貸してくれるかというのが重要だと思うので。そう思えば、当時のこともいい勉強になったかなと、今は思いますね。

-清水さんはエンジニアもしていますしね。小林さんの前作『SQUEEZE』(2018年5月リリースのEP)は、まさにこの仲間で作ったアルバムでもありましたね。

小林:『SQUEEZE』は僕のソロ・アルバムですけど、メンバー的にはアカバナ(Academic BANANA)にすごく助けてもらって、ようやくできたアルバムでしたね。お世話になりました(笑)。そしてこれからもお世話になります。

-清水さんはエンジニアについてどこで学んでいたんですか。

清水:大学でレコーディングの勉強をしていて、卒業したタイミングで東京のスタジオに就職したんです。そのスタジオを辞めたタイミングと齋藤に連絡したタイミングがほぼ同時で。それまでレコーディングをするエンジニアの仕事ばっかりだったので、"バンドやりたいな"ということで声を掛けたんです。

-萩原さんはどういう感じだったんですか。

萩原:東京に出たのは早かったんですよね。

齋藤:僕らよりも1年遅く出てきたのかな。

萩原:高校卒業して"大学受験は余裕やろ"と思って受けたら、落ちたんですよ(笑)。それで東京に出て音楽の専門学校に通って、バンドをやったり、サポートをしたりしていたんです。

齋藤:それこそ、20歳そこそこのころには僕と一緒にバンドをやっていましたね。

萩原:東京に来てからは、齋藤とはわりと一緒に活動してました。

-10代のころにしのぎを削り合うような環境で出会って、それが今こうして一緒に音を出しているっていうのは、そのとき想像できていたことでしたか。

齋藤:思ってもないですよね。

小林:そもそも高校時代、俺は"ミュージシャンになれればいいな"って言っていて、清水は"エンジニアになれればいいな"って言っていたんですよ。ただ頭のいい健太が、音楽の道に行くとは思わなかった(笑)。

萩原:何があるかわからんってことよ。