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INTERVIEW

Japanese

SEBASTIAN X

2014年11月号掲載

SEBASTIAN X

Member:永原 真夏(Vo)

Interviewer:天野 史彬

-マニアックな視点から歌われる"あえての歌謡曲"じゃなくて、今、この時代に必然的に鳴らされる音楽として「スーダラ節」を届けなければいけなかったっていうことですよね。この曲の、あまりに有名な"スイスイ スーダララッタ/スラスラ スイスイスイ"っていう部分は、やっぱり永原さんのおっしゃる"ポエジー"をすごく体現してるラインだと思うんですよ。でもその分、この曲の主人公に本気でなりきるのって、大変な作業だったんじゃないですか?

大変だったけど......でも、この詞の世界観が自分の性格にわりと近かったんですよね。だから、演じようというよりは、普段の自分らしく歌いましたね。むしろ、演じきろうと思うと逆に無理というか。普段の自分を自然に出せる感じにしたというか......"ま、いっか"って感じで歌いましたね。"分かっちゃいるけど やめられない"の後に自分だったらなんて思うかなって。"分かっちゃいるけど やめられない"っていうことはもうやっちゃてるわけだから、自分だったら"もう、楽しもうぜ"ってなると思うんですよ。その感じで歌いましたね。なので、あんまり迷いはなかったかもしれないです。

-たしかに、この曲って誰もが自分を重ねて歌えてしまう、そんなすごさもあるんですよね。実際、SEBASTIAN Xのライヴで"スイスイ スーダララッタ/スラスラ スイスイスイ"ってオーディエンスが合唱する瞬間のカタルシスはすごいですからね。

この曲って、もし男が歌ったら弱くて、女が歌ったら強いんですよ。だからある意味、男女逆転する曲だと思ってて。男の中の男の歌じゃないんですよ。ジェンダー・フリーな曲なんですよね。だから、その部分がカタルシスになるのかもしれないですね。みんなで歌うと性別がなくなるんです。「スーダラ節」というと植木(等)さんのイメージが強いから、"ダメな親父の歌"っていう印象が強いかもしれないけど、決してそうじゃなくて、10代の子でもおじいちゃんでも歌える。そういういろんな声が重なることでカタルシスが生まれるのかなって思います。......それに、みんな本当はこういうふうに生きていきたいんじゃないかなって思う。私は競馬もするし恋も多いし、この曲の主人公に重なる部分が多いんですけど、でも私自身、お酒は飲まないんですよ。そこがこの曲と私の現実とは違うんですね。それと同じように、みんな現実では競馬ですっからかんになんてできないし、ちょいと1杯のつもりでハシゴ酒したくても次の日仕事があるし、一目惚れした娘にすぐに手なんて出せないし。本当はこういうふうに生きていきたい――そういう欲望があって、それを少し出してしまう瞬間があるから、この曲はリアリティがあるんだと思います。この曲のまんま生活するなんて無理なので。そこもカタルシスなのかな。欲望と"あるある"が両方ある揺らぎ。だから、すごく両極がある詞なんですよね。こういうふうに生きたいっていう思いもあれば、こういうときあるよねーっていうのもある。男も歌えるし女も歌える。いろんな両極端が入ってるのは、すごいなって思いますね。

-その理想と現実、男と女の両極性って、SEBASTIAN Xのレパートリーの中だと「ヒバリオペラ」に詞や曲の構造が近い感じがしませんか。

たしかに「ヒバリオペラ」は近いものを私も感じました。「ヒバリオペラ」はライヴでコール&レスポンスの部分を男と女で分けて歌ってもらって、最後にみんなで歌ってもらうんです。「スーダラ節」にも「ヒバリオペラ」にも、やっぱり男と女の両方の声が出てようやく出てくる雰囲気ってあるんですよね。何がどう似ているかっていう語りかたはできないんですけど、ライヴで反射的にそれを行っているのは「スーダラ節」と「ヒバリオペラ」だけなんですよね。そこは同じものがあるんだと思います。

-そう考えると、SEBASTIAN Xは着実に自分たちの鳴らしたい音楽の実像みたいなものに近づいていってる感じがありますよね。

ありますね。最初は目指すものすらない状態からリリースさせてもらってて。そこから徐々に、みんなでやりたいこと、行きたい場所、表現したいことっていうのができて、見えてきた感じはしますね。

-だからこの先期待するのは、SEBASTIAN Xに21世紀の「スーダラ節」を作ってほしいっていうことなんですけど。

あ、それは作りたい! 作りたいです。「スーダラ節」だけじゃなくても、そういう音楽は作りたいですね。それは強く思います。

-期待しております。で、今作は作品全体としても「スーダラ節」に通じる理想と現実の両極性を描いているような気がしたんですね。というのも、Track.4「ぼくはおばけさ」とTrack.5「ライダースは22世紀を目指す」には、永原さんから見た現代社会のリアリティがすごく浮き彫りになってるなと思ったんです。

うんうん。

-例えば、「ぼくはおばけさ」の"叩き合う人々/あいつらはみんな濁ってる"とか"駅のホームで/今日も飛び降り自殺/乱れたダイヤは/生きた証?"っていうラインとか、今の社会に対する鋭い目線があると思うんですよ。

なんか、叩き合うのが流行ってるなって思うんですよ。それが単純に気持ち悪いんですよね。でも、それをそのまま書くんじゃなくて、もっと違った表現ができないかなって思ったんです。「ぼくはおばけさ」は、飛び降り自殺をする手前の人の歌なんですよ。それを"おばけ"を使って表現できないかなって思った部分はありますね。嫌だなって思ったことを嫌だなってそのまま歌うのは、届かなくなる要因だと思うので。嫌なことは嫌だ、悲しいことは悲しいって描かないのは自分のスタイルなので、自分が伝えたいことも、別のアイコンを使って表現するのはずっとずっとやってることだと思いますね。