Skream! | 邦楽ロック・洋楽ロック ポータルサイト

MENU

LIVE REPORT

Japanese

TOKYO春告ジャンボリー

Skream! マガジン 2013年06月号掲載

2013.04.29 @上野水上野外音楽堂

Reported by 天野 史彬

今年で2度目の開催を迎えるSEBASTIAN X主催“TOKYO春告ジャンボリー”。上野水上野外音楽堂で行われるこのイヴェントは、大規模な野外フェスティヴァルとも違えば、もちろんライヴハウスでの企画ものとも様相の異なるイヴェントである。雰囲気的には遊園地のヒーロー・ショウや、水族館のイルカのショウの方が近い。仲間や家族、恋人同士で食べ物を持参して、のんびりと楽しむ感じ。もちろん、音楽は空間の中心にあるが、何も強制しない。音楽は、上野という場所と、人と、その隣にいる人を、ただ緩やかに繋いでいる。バンド・セットとアコースティック・セットが別ステージで交互に展開されるから転換もスムーズだし、何より、場内で飲食物が販売できないから、酒も食べ物も持ち込み自由というのがいい。途中で買出しに出かけても、何度でも再入場可能だ。この、とてものんびりした空間は、音楽フェスやイヴェントが乱立するこの国において、とても革新的で批評的な立ち位置にいる。音楽を街に開放し、音楽が私たちの生活をとても豊かに彩ってくれるものだということを教えてくれる、とても可能性に満ちたイヴェントだ。

13時30分からトップバッターである音沙汰の演奏が始まると聞いていたので、13時ごろに上野駅に到着。会場に行く前に、少しばかりアメ横をぶらぶらする。さすが祝日とあって人通りが多く、老若男女いろんな人で賑わっている。並んでいる店もとにかく雑多だ。その色とりどりに活気づいた景色は、まるでSEBASTIAN Xの音楽のようでもある。13時30分少し前に会場に入ると、既に多くのオーディエンスが会場入りしていて、各々椅子に座り、ビールやチューハイの缶を空けている。昼間から飲むビール、とてもいい光景だ。祝日はこうでなくては。そして、音沙汰の演奏がスタート。音沙汰はSEBASTIAN Xのヴォーカル永原真夏とキーボードの工藤歩里によるユニットで、いわばSEBASTIAN Xの雛形のようなものである。去年もこのふたりがトップバッターを務めているが、音沙汰による演奏は普段はなかなか見れないので、春告ジャンボリーはとても貴重な場である。工藤の演奏に乗せて、永原がちあきなおみの「喝采」を歌いながら客席後方から登場する。工藤も永原も着物姿で、永原は長かった髪をばっさり切っている。ふたりの登場に、一気に会場が華やかな気分に包まれていくのがよくわかる。「喝采」の後は、音沙汰オリジナル曲「星屑と摩天楼」、SEBASTIAN Xのナンバー「宮路くん」、そして「夢やぶれて」、「スーダラ節」と全5曲を披露。特に「スーダラ節」がよかった。労働者、生活者の哀愁溢れる日常をユーモラスに綴ったこの曲の持つ普遍的な輝きが、それぞれの生活を抱えながら祝日を謳歌しに上野にやってきた人々の心にスッと入っていく。会場の端から端までが“スイスイ スーダラダッタ スラスラ スイスイスイ~”と大合唱。ロックだのポップだののジャンルは関係なく、大衆音楽=ポップ・ミュージックの圧倒的な力を見せつけられるようだった。

2番手には7人組のブラス・バンド、BLACK BOTTOM BRASS BAND(以下:BBBB)が登場。去年のPanorama Steel Orchestraがそうだったように、春告ジャンボリーにはこういったインディー畑とは違った場所からの出演者がいることも見所のひとつだ。そこにはきっと、自分たちのリスナーに対し、普段はなかなか触れ合うことのない音楽体験を提供しようというSEBASTIAN Xの面々の心意気と、このイヴェントをインディー・シーンだけの閉鎖されたものにしたくないという強い意思があるのだろう。BBBBも、会場の後方より練り歩きながらマーチング・バンド風に登場。その演奏に合わせて、オーディエンスが次々と席を立ち、手を叩き踊り始める。音沙汰が演奏した「スーダラ節」がそうであるように、優れた大衆音楽は人々の喜びも、悲しみも、すべてを抱きしめて躍らせるのだ。「ワッショイブギ」なる曲では、“ワッショイ~”のコーラスが会場全体を覆う。BBBBが音楽のプロであるだけでなく、“人を楽しませる”ことに関してのプロフェッショナルであることがよくわかる、熱く、楽しい演奏だ。私の座っていた席の後方からは“音楽最高~!”と叫ぶ男性の声が聞こえてきた。まったく、同感である。

BBBBの演奏でヒートアップした会場に、そっと可憐に現れたのが3番手の平賀さち枝。ひとり、アコースティック・ギターを爪弾きながら歌い始める。私は去年、何度か彼女の弾き語りをライヴで聴いているのだが、観るたびに、次第にその歌声は強く、たくましくなっていっているように思える。だがもちろん、彼女の持ち味である少女のような繊細さも健在で、まるでふっくらとしつつもキメ細やかな、炊き立ての白米のような歌声だなぁと聴き惚れる。“昨日から、ハイキングに行くみたいに楽しみだった”と語る平賀。そのほんわかとしたキャラクターに会場が癒され、包まれていくようだ。平賀の歌は、彼女の生活がそのままメロディを持って飛び立ったような等身大の美しさと儚さを持っているが、そんな彼女の音楽性は非常に春告ジャンボリーのイヴェント性とマッチしているように思えたし、彼女が最近披露していて、この日も演奏された新曲「Loving you」は、まるで『LIFE』の頃の小沢健二を思わせる恋の賛歌で、この先、彼女の歌が一層華やかな色彩を帯びていく姿が想像できて、楽しみになる。

そして4番手はoono yuuki。今、様々なアーティストが繋がり合うことで活況を呈している東京のインディー・シーンだが、oono yuukiはその代表的存在のひとりである。この日は、フルートやコントラバスなども参加する7人編成のアコースティック・バンド・セットで登場。演奏が始まるや否や、その凄まじい音塊に一気に会場のボルテージが上がる。音楽が爪先から伝わって頭のてっぺんに昇っていくような高揚感。ロックもフォークもカントリーもアイリッシュ・トラッドも飲み込んだオリジナリティとダイナミズム溢れる演奏は、これが根源的な音楽の力かと、崇高さすら感じさせるほどだ。しかもこの日は、アイルランドの初期パンク・バンド、THE UUNDERTONESの名曲「Teenage Kicks」のカヴァーまで披露。これには泣きそうになった。何故なら「Teenage Kicks」と言えば、他のパンク・バンドが政治的な歌詞を歌い叫ぶ中、“君に電話するぜ”“君を抱きしめたいんだ”と、あまりに普遍的な恋心を叫んだ曲なのだ。自分たちにとってのパンクとは政治的革命を目指すことでも、お偉いさんを罵ることでもなく、恋をして輝くことなのだと歌った、最高のパンク・ソングでありラヴ・ソングなのだ。まるで、SEBASTIAN Xの「ヒバリオペラ」みたいじゃないか。この粋なカヴァーに感動しつつ、その屈強な演奏に大いに身体を揺らす。

続いてのアコースティック・セットに登場したのは、新ベーシスト谷山竜志を迎え活動再開を果たした踊ってばかりの国。去年の活動休止の報には驚き心配もしたが、こうして早期に再開できたのは何よりだ。名曲「バケツの中でも」からライヴはスタート。その緩やかなグルーヴ感が気持ちいい。相変わらず演奏も上手い。アコースティック・セットになっても、彼らの持つグルーヴ感、アシッド感はまったく損なわれることはなく、むしろ音数が減るほどに、彼らのヤバさは際立っていく。音楽は、ギターの音を重ねれば、曲を長尺にすればカッコよくなるわけでも、サイケデリックになるわけでもない。そのことを、踊ってばかりの国を観るたびに痛感させられる。まるで“血”で音楽を鳴らしているような潔さとセンスのよさを、この日の演奏からも感じた。「踊ってはいけない国」という意味深なタイトルの新曲では踊ることすら規制されるこの国に対して痛烈なメッセージを放ち、最後に演奏された「セシウム・ブルース」における下津光史の絶唱には、震災以降のこの国に生きる私たちの胸に一直線に突き刺さってくるような凄まじさがあった。

そして6番手はうみのて。去年は笹口騒音ハーモニカとしてソロで出演し、上野に混乱と爆笑と熱狂をもたらしていたが、バンドで登場した今年はさらにヤバかった。1曲目の「Words Kill People(COTODAMA THE KILLER)」からフル・スロットル。笹口騒音は叫び、ギターの高野P介はグネグネと身体を動かし、ギターを掻き鳴らす。それまで穏やかな時間が流れていた上野水上野外音楽堂に、一気にノイジーなギターが突き刺さる。そんな激しい演奏の中で、寺元みきの奏でるグロッケン・シュピールやピアニカのキュートな音色が、曲にポップさと不穏さを同時に与えていく。一見ユーモラスな出で立ちのバンドだが、その演奏はハンパなくカッコいい。この世の不条理を明け透けに暴く代表曲「もはや平和ではない」で会場は熱狂。踊ってばかりの国~うみのての流れは春告ジャンボリーに社会的なメッセージ性をもつけ加えているようで、この2アクトの登場により、まるで昭和のフォーク・ジャンボリーを思わせる空気感も会場には漂っていた。最後に演奏された「東京駅」では、笹口はステージから降りる、酒瓶を煽って吹きつける、着ていたシャツを投げるなどやりたい放題。とんでもない存在感を放つ強烈なステージだった。

続いてアコースティック・ステージのトリに登場したのは、曽我部恵一。彼がギターを弾き、歌い始めた瞬間、会場の空気が一瞬にして変わった。「トーキョー・ストーリー」、「きみの愛だけがぼくの♥をこわす」、「キラキラ!」と立て続けに演奏。そのメロディと歌声、そこから滲み出る圧倒的な存在感に、会場は端から端までが息を呑むようにして釘づけになっている。“子供がSEBASTIAN Xの大ファンで、今日呼ばれなかったら普通に客として来ようと思ってた”と語る曽我部。そこには父親としての優しげな表情があったが、いざ歌い出せば、そこには屈強なロックンローラーとしての顔があり、ソリッドなメッセンジャーとしての顔もある。ソロ名義、曽我部恵一BAND、サニーデイ・サービスなど様々なアウトプットを持つ曽我部だが、この日の彼には、そのすべての表情が曽我部恵一というひとりの男の中に集約され、一気に放出されるような、そんな凄みがあった。「テレフォン・ラブ」での合唱で会場に一体感を持たせれば、続く「満員電車は走る」、「魔法のバスに乗って」では全霊の力強さで、この日上野に集った人々を抱きしめてみせる。そして最後に演奏された「春の嵐」では、儚くも美しい風を会場に吹かせ、会場を温かな空気で包み込んだ。

昼間から始まった春告ジャンボリーも、この頃には空は真っ暗。それでも、会場のオーディエンスは最後のバンドを待ち構えている。大トリ、SEBASTIAN Xの登場である。メンバーがステージに登場するや否や、客席に座っていたオーディエンスが一斉にステージ前方に駆け寄っていく。誰もがまだ、踊り足りないのだ。「サディスティック・カシオペア」から演奏はスタート。一気に会場のボルテージが上がっていく。続く「世界の果てまで連れてって!」で、会場はより一層の盛り上がりに。去年、渋谷CLUB QUATTROでのワンマンを観た時にも感じたことだが、ミニアルバム『ひなぎくと怪獣』のリリース以降、彼女たちの音楽に向かう姿勢は大きな変化を遂げた。『ひなぎく~』以前は、自分たちの中から湧き上がる表現欲求と、そこから生み出されるメロディと言葉をぶつける先が見定められていないような、自分たちの中で暴発してしまっているような感じがあったが、今は違う。今は、自分たちの音楽の伝わる先をしっかりと見据えながら、“届け!”と力強い思いを込めているような、そんなバンドとしての芯がしっかり定まっている。だからこそ、バンドの演奏は俄然安定感を増したし、永原のヴォーカルは太く、強くなった。2~3年前とは、音の響き方が、声の通り方が全然違うのだ。

中盤の「日向の国のユカ」~「若き日々よ」の流れでは、明るく楽しいだけじゃない、その深遠な世界観が顔を出す。これらの楽曲からは、SEBASTIAN Xが放つ天真爛漫な輝きの、その奥底にある“過去”や“死”といったモチーフが如実に現れてくる。そして本編最後は、「つきぬけて」、「ワンダフルワールド」、「ヒバリオペラ」で締めくくった。この春告ジャンボリーのために作られたという「ヒバリオペラ」では、熱いコール&レスポンスも披露。オーディエンスは大いに歌っている。「ヒバリオペラ」は、普通の女の子が恋に落ちていく喜びと悲しみを歌ったラヴ・ソングだ。この曲に宿る普遍的な光は、春告ジャンボリーの現場で、より一層の輝きを放っているようだった。恋に落ちる――この何の変哲もない、この広い世界にとってはほんの些細な出来事が、しかし、ひとりの人間の人生を最高に豊かに輝かせるように、春告ジャンボリーは、上野に集まった1人ひとりの人生の中のこの1日を、とても輝きに満ちたものにしている。それは、自分の周りにいるオーディエンスの表情を見れば明らかだった。何も、無理をしたり、力んだりする必要はない。始まったばかりの新生活で溜まった疲れやストレスを少しばかり引きずりながら、この日、上野水上野外音楽堂に集まった人々は、大いに歌い、飲み、笑っていた。SEBASTIAN Xをはじめ、この日出演した8組のアーティストが奏でる音楽は、私たちの生活と地続きの場所から鳴らされながらも、しかしそっと、私たちを日常の外へと連れ出したのだ。そこには私たちの日々と地続きの魔法のような1日があり、「ヒバリオペラ」はそんな1日を見事に象徴していた。

アンコールでは、永原がアコースティック・ステージへ降り立ち新曲「DNA」を披露。8月にアルバムがリリースされること、そしてリリース・ツアーのファイナルが恵比寿LIQUIDROOMで行われることが発表された。着実に活動の規模を増していくSEBASTIAN Xだが、新曲「DNA」はまさに、そんなバンドに相応しいスケール感の大きなメロディとキュートなコーラスが印象的な人間賛歌で、俄然アルバムが楽しみになる。そして、2度目のアンコールで演奏された「ツアー・スターピープル」で、今年の春告ジャンボリーは大団円を迎えた。ライヴが終わると、誰もが笑顔で、しかし名残惜しそうな表情をしながら会場を後にする。誰もが、この日、春告ジャンボリーでの記憶を抱きしめながら、それぞれの毎日へと戻っていく。翌日、また仕事や学校に行かなければ行けない人もいただろう。これから続く日々の中で、今日のような笑顔を浮かべることができない時もあるだろう。だがそれでも、音楽を聴き、隣にいる人と目配せをすることで得られる小さな魔法もある。そんなことを、春告ジャンボリーの存在は教えてくれたように思う。“また来年も来たい!”――私の近くにいた女の子たちは帰り際、こんな風に喋っていた。そう、そうやって毎年、年に1回、この日常に彩を添えてくれるものとして春告ジャンボリーが続いてくれたら、こんなに嬉しいことはない。このイヴェントが東京の春の風物詩になれば、こんなに素敵なことはない。それまで、また私たちはこの日々の中で音楽を聴き、恋をして、喜び、傷つきながら生きていこう。そうしてまた来年の春、少しだけこの現実からはみ出して、大いに飲んで笑えたら最高だ。では、また来年。