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INTERVIEW

Japanese

小林私

2023年06月号掲載

小林私

Interviewer:石角 友香

徹頭徹尾、一発勝負の弾き語りで鬼気迫る表現を見せたかと思えば、今歌ったことを忘れさせるような笑えたり、不条理だったりするMCで観る者を脱臼させる小林私。早くもオリジナルとしては3作目となるアルバム『象形に裁つ』をリリースする。アレンジャーに若手ボカロPのSAKURAmotiや白神真志朗、シンリズム、トオミヨウという多彩な人気クリエイターを迎え、グッと現在進行形に落とし込んだ8曲。本作で活動の場をメジャー・シーンに移し、さらにこの不可思議な個性が広がりそうなタイミングで、本誌初インタビューを実施。特徴的な詩作についてや、もともと存在する楽曲の音源化について訊いてみた。

-小林さんがアルバム制作に向かうモチベーションは、毎回違うのかなって勝手に想像してるんですけど、アルバム制作をするという意味で今回、これまでと違いはありましたか?

まぁアルバムは"作れ"と言われて作ってるみたいな感じですね、毎回(笑)。

-自らアルバムを作りましょうということではない?

ゴリゴリのサブスク世代なので、アルバム単位で聴く習慣みたいなのがもうそんなにないし、リスナーもわりと20代ぐらいが多いので、"アルバムっていうやつですね"ってぐらいで。

-アルバムだとどういうことができると思いますか?

音源化のペースと自分が作って配信とかでやって世に出すペースがあんま合ってないんで、音源化してない曲をこの機会に音源化してやらないとなという気持ちが多いですね。

-今回の"象形に裁つ"も前作の"光を投げていた"(2022年リリースの2ndアルバム)も、主体の行為によって対象が形作られるみたいなタイトルだなと思ったんですけど、基本的に小林さんがものを作るときの視点っていうのは変わらないのかなと。

そうですね。"象形に裁つ"にしろ"光を投げていた"にしろ、側が違うだけで言ってることはそんな変わってない。なので、スタンス自体はあんまり変わってないのかなという感じがしますね。

-プロのミュージシャンとして何年目なんでしたっけ。

3年ちょっとぐらいですね。

-ここまでキャリアが進んできたことに関してはどうですか?

"ラッキー"って感じですよね(笑)。

-音楽で食ってるっていう感じでもなく?

音楽で食ってるんですかね(笑)。

-でも主な生業?

そうですね。一番お仕事頂いて、世にこれで出てますっていう意味合いでは、音楽が強い側面として立ち上がっている感じがします。

-基本的に作った曲があるから出したいっていうことだと思うんですけど、前作ともまた違うアレンジャーとかミュージシャンですね。

そうですね。早く音源化しろってずっと言われてたやつを、いい加減出さないとなという気持ちがいっぱいあったんで、それをメインに添えつつ、最近作った「杮落し」や「可塑」なども入れて構成したいなって軸はありました。

-ライヴでやり続けてることがひとつ選曲の軸になってると。

全然やってないのもあります。「繁茂」とか、ライヴでやるには難しいからあんまりやんなくていいかみたいなところがありますけど(笑)。「花も咲かない束の間に」とか「線・辺・点」は最近よくやってるので、何かしらの形で出してくれってずっと言われてて、それを出せるのは良かったなという感じはありますね。

-印象としてこれまで以上に文語的な表現が多いっていうか。

そうかもしれないですね。

-意味を追いながら聴いてると曲の速さでは間に合わないんですよ。

文語でしか書けないっていうのはあるので。

-これまでそこまで文語調じゃなかったんじゃないですか?

まぁ「悲しみのレモンサワー」と「生活」(共に2021年リリースの1stアルバム『健康を患う』収録曲)は制作過程が特殊だったんで。

-逆にあれが特殊だったんですね。

あれはトップクラスに特殊ですね。トップクラスに特殊なやつを最初の2本で出すって、意味がわからないことをしてたんですけど。「悲しみのレモンサワー」に関しては、僕はもうライヴでやらないって決めて封印しちゃってるんで(笑)。

-じゃあ今回の文語調がデフォルトなんですね。

わりと本領というかいつもやってるような形でまとめられたかなって感じはありますね。

-聴いてるうちに目から入ってくる情報と耳から入ってくる音楽が錯綜するというか、意味が間に合わない感じなんですけど、そんな面白さを小林さんは自分の作品では求めていらっしゃるんでしょうか。

そうですね。曲中で汲み取れるスピード感と、詩として読んだときに汲み取れるスピード感は、若干ラグを持たせたいみたいな気持ちがあるので。詩を読むというか、文章を読むのが好きなので、文章を読むのが好きって脳の人たちに歌詞単体で見られたときにも、消費としてちゃんと耐えうる強度を持ってたい気持ちはありますね。

-詩として読んだときにも強度が必要だというのはどんな意味が?

見る人側のことをあんまり舐めたくないというか、たまにバカにされてるのかと思うぐらいの歌詞を見ると、俺はやりたくないなと思うので。探っていくなかでこうなっちゃってるみたいなところもありますけど、そんな小難しくしたい気持ちは全然ないし、説明的すぎるのもクサいなと考えているので、自分の身体にちゃんと入っている言葉の中でより良い表現形態というか。「花も咲かない束の間に」とかは、特に歌詞よりかは詩としての強度のほうに比重を置いて書いてるんで、そういう意識はある曲にはありますね。