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INTERVIEW

Overseas

THE 1975

2022年10月号掲載

THE 1975

Member:Matthew Healy(Vo/Gt)

Interviewer:新谷 洋子

-本作は計11曲(+ボーナス・トラック)というコンパクトさ、先ほど触れたオーガニックなサウンドを始め、いろんな面でこれまでの作品と一線を画した感がありますが、このアルバムを完成させたことで、この先の見通し、例えば10年後に自分たちがやるべきことが見えてきましたか?

Matthew:その質問に答えるとしたら、僕は"この札を切るのは早すぎるのかな"と感じた瞬間もあった。でもすぐに、"いいや"と否定したよ。なぜって僕は、ここからさらに遠くまで行くことができるから。例えばBruce Springsteenのアルバム『Nebraska』について言うと、人々が今こそBruceにギター1本で歌ってほしいと思っていたときに、まさにそういうアルバムがリリースされた。だろう? 人々が今THE 1975に求めているのは、こういうアルバムだと僕は思うんだ。僕は常に空気を読んでいて、のちのちこの路線に飽きたときに――今はまだ飽きていないけどね――次に行くべき場所を見極めるんだろう。とはいえ、このアルバムは10年後に生まれたとしても成立すると思うんだ。だから、あと2枚くらい未踏の域に踏み込むようなアルバムに取り組んでから、こういうアルバムを作ることもできたと思うけど、タイミング的には良かったんじゃないかな。歳を取ってからこういうアルバムを作ったら、"あぁ、彼らはもう年寄りだから普通にロックをやりたいんだな"って思われるかもしれないし。"もう40歳だし、トラディショナルな音楽をやりたいんだろう"って(笑)。

-Jackに限らず、今回はソングライティングにおいても共作者が多数いたり、あなたとGeorgeのクリエイティヴなバブルの中に、外部の人を積極的に招き入れているように思います。そういう決断に至った理由は?

Matthew:このアルバムで大勢の才能に恵まれた人たちの手を借りたことは事実だから、彼らの貢献を軽視するつもりはないんだけど、何か問題に直面してそれを解決するために、外部の人たちを積極的に起用したわけじゃないんだ。単にアルバムの制作方法を変えただけなんだよ。これまでの僕らは、たいていは田舎で家を借りて、1年くらい共同生活を送りながらアルバムを作っていた。でもそういうやり方だと、他の人たちが立ち寄るっていうことはないよね。わざわざ誰かが遊びにきてぶらぶらしているとか、訪ねてきてくれるってことはなかった。でもAdamに子供が生まれたし、全員ロンドンに住んでいたから、"今回は、毎日必ずどこかで会うようにしよう。スタジオに入って9時から5時まで作業をして、何が起きるか様子を見よう"ということになった。だからコラボレーションが容易になったんだ。ロンドンのスタジオなら、友達が気軽に遊びに来る。"やぁ、元気? これはどう思う?"、"うん、すごくいい感じだよ"みたいなノリで、それが誰のアイディアだろうと、いいアイディアはいいアイディアだからね。正式にセッションの場を持ったのは一度だけで、普段Jimmy HogarthとコラボしているBenjamin Francis Leftwichに、こう提案したんだ。"僕らは誰かと共作するってことはないんだけど、、Jamie(Jamie Squire)とそっちに行くから、Jimmy(Jimmy Hogarth)を交えて何か一緒に書こうよ"と。Jamieはバンドでキーボードを弾いていて、Georgeと僕と曲作りもしている。そうしたら、そのセッションで「Human Too」と「Oh Caroline」が生まれた。ただ、残りの曲はどれも僕らがスタジオでの作業を通じて書いたんだよね。たまたまソングライターの友達が遊びにきて、"この曲をこんなふうにしたらどう?"みたいな意見をくれて、何か歌ってくれて、(※指を鳴らして)"いいね! やってみようよ"という話になったのさ。計画的にソングライティングのセッションをやったわけじゃない。だからこれまでとそんなに変わらないんだ。従来より多くの人がスタジオに来てくれたというだけさ。それにJackは本当に社交的な人でもあって、才能豊かな友人が大勢いて、みんな世界で最高に有能な人たちなんだ。Jackがしょっちゅう誰かを呼び出していたよ。

-世界が日々混迷を深めているなか、本作では社会的/政治的なイシューにほとんど言及せず、逆にラヴを筆頭に普遍的なテーマにフォーカスしているのは、なぜでしょう?

Matthew:なぜって、そうすることが、非常にラディカルだと思ったからさ。このアルバムはすごくラディカルだと僕は思っている。いや、最初はそうは思っていなかった。僕が関心を持っているのは、自分は少しラディカルなんだと感じさせてくれる主張であって、これまで10年間、それを実践してきた。レンガの壁に向かって叫んでいるような気分だったよ。かといって身を引いたわけじゃないし、自分を弁護するためにひとつ言っておくと、これまでもそれほど頻繁にポリティカルな見解を強く打ち出していたわけではないんだ。経済はこういう方向に進むべきだとか、社会のどの層を引き上げるべきだとか。それにこのアルバムでも、かなりカルチャー・ウォー(イデオロギーなどが異なる人々の間の価値観や信条の対立)について語っているよ。僕らがお互いにどうコミュニケーションをとっているかということをね。つまり僕は今も相変わらずインターネットについて、他にもこういったことが議論されている空間について、あれこれ語っている。特に「The 1975」や「Looking For Somebody (To Love)」や「Part Of The Band」でね。「When We Are Together」でも少し。それ以外の曲はみんなパーソナルなんだ。でもパーソナルな曲を書くほうが、大きなリスクを伴うと思った。そもそも『Notes On A Conditional Form』のあとで、みんな僕に何を期待していたんだろうね。だろ? あのアルバムには22曲も入っていて、考えつく限りあらゆるコンセプトを取り上げた。今の僕はああいうことをする必要はないんだ。他の人たちがやるべきであって、僕は新しいことをしなくちゃいけないんだよ。

-今話題にあがった『Notes On A Conditional Form』は、今振り返ってみたとき、あなたたちにとってどういうアルバムだったと思いますか?

Matthew:いろんな意味で僕らの最高傑作だと思う。僕はただ、自分たち自身にとことん正直であろうとしていただけなんだ。アルバムとして成立させるために必要な条件をすべて満たしているのか否か、明言はできない。でも当時の僕らがいた場所を正直に投影していたことは間違いないよ。僕は時間を切り取ろうとしていて、あのアルバムほどに2020年のカオスを正確に映した作品は、他にあまりないと思う。なぜって当時の僕らは、何もかもが崩壊に向かいつつあるように感じていた。カルチャーも社会もバラバラになっていくかのように。特にあの頃のミュージック・ビデオには、自分でも観ていて気まずくなるものがあるし、若いファンの目にはどう映ったんだろうね。そんなわけで、もう二度とあんな作品は作らないし、同時に、ああいう作品を作って本当に良かった。あの時期だからこそ生まれ得たアルバムだよ。

-あなたに"あぁ、自分はもう若くないんだ、大人にならないと"と思わせた出来事、あるいはそう思わせた瞬間について、何か覚えていることがあれば教えてください。

Matthew:僕は別に、自分が若さを失ったように感じるわけじゃない。ただ単に、"男の子"から"若い男"への移行にあまりにも長い年月を要してしまったんだ(笑)。そして今の僕は"若い男"であって、"男"という言葉をちゃんと含んでいるから、そういう意味で自分が何をするべきかわかっている。......セクシーなアイディアはセクシーだよね。だから僕が作品で扱ってきたこと――それは非常に虚無的で個人主義的な、ポストモダンな物事で、ドラッグ、ドラッグに依存すること、その魅力みたいなもの、有名であること、すべてがクールな嗜みだった。他方で成長すること――"年を取ること"ではなくてね――は、理論上はそこまでクールじゃない。でも成長することの美しさ、重要性、成長に伴う自己表出みたいなことについて語ることができたら、それは、浮薄な物事よりもクールだと思うんだ。僕はとにかく以前より正直になったし、正直であることこそ、誰かが真実を語るということこそ、クールなんだと思っている。そんなわけで、少し年を取ってちょっと落ち着いたし、ちょっと穏やかになったし、以前の自分が必要としていたものを冷静に捉えられるようになった。例えば、今までの僕はものすごくウォーク(※社会問題について意識を高く持つこと)でいる必要性を感じていたし、そういったたくさんのことを必要としていたけど、今はより正直になって、現状を受け入れられるようになったよ。

-これまでにあなたが書いたすべての曲の中で、「Human Too」はおそらく最も無防備な曲かもしれません。この曲が生まれた経緯を教えてください。

Matthew:一番無防備なのかどうかは、僕には判断できない。その意見に反論することもできる。THE 1975に関して面白いことがあって......人は誰もがなんらかのトラウマを負っているよね。僕は基本的にはなんでも語るわけだけど、自分の中にTHE 1975の作品でも取り上げないレイヤーがあって、それはものすごく深い場所にあるレイヤーなんだ。と同時に、THE 1975の作品で取り上げてはいるものの、あえて説明していない部分もある。だから何について書いているのか、他の人たちにはわからない曲もあって、それらの曲は「Human Too」よりも僕を無防備な気分にさせるよ。「Human Too」では、僕は他人について一方的な判断を下したりしないってことを歌っているんだ。僕は他人を批判したがる人間じゃない。それに、年を取るにつれて寛容になって、自分に対してもより優しくなろうと努力している。「Human Too」では"ねぇ、みんな同じ人間じゃないか"と語り掛けると共に、"僕らはみんな同じチームに属しているんだよ"とも訴えている。それは男と女とか、人種やジェンダー間の分断のことを言っているわけじゃない。億万長者VS納税者という構図を歌っているのさ(笑)。本当の意味で、世界で一番重要な分断はそこにある。資本主義者たちや、この社会を本当の意味で支配している人たちは、僕らの関心をそこから遠ざけて、わざとこういった他の分断線に向けさせているんだよ。カルチャー・ウォー的な物事にね。「Human Too」はそういう意味で、今の社会を論じているんだ。僕は単純に"僕は人間で、君も人間なんだ"と歌っていて、みんな自分が人間だってことは知っていて、何か特別なことを宣言しているわけじゃない。誰もがすでに心得ていることを再確認しているだけだよね。"ねぇねぇ、そんなことでもめるのはやめようよ、同じ側に留まってくれよ"と訴えているのさ。