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ヨルシカ

2020年08月号掲載

ヨルシカ

Writer 秦 理絵

『だから僕は音楽を辞めた』(2019年4月)と『エルマ』(2019年8月)という衝撃的な作品によって、インターネット・シーンだけでなく、音楽シーンの最注目アーティストの1組として広く認知されたヨルシカが、前アルバムから約1年ぶりとなる3rdフル・アルバム『盗作』をリリースした。音楽を辞めることを決意した青年 エイミーが、想いを寄せる女性 エルマに宛てた作品というコンセプトで作り上げた、1stフル・アルバム『だから僕は音楽を辞めた』と、その続編であり、エイミーからの手紙に影響を受けたエルマによる作品というコンセプトで作り上げた、2ndフル・アルバム『エルマ』は非常にコンセプチュアルで、一般的な"CDアルバム"とは一線を画す内容だった。共に初回生産限定盤パッケージには音源だけでなく、エイミーとエルマが書き残した手紙や日記、訪れた街で撮影した写真などが同封され、それをひもとくことで、作品を手にしたリスナーが、エイミーとエルマの物語を追体験できる仕掛けが用意されていた。

そこにあるのは、作品への圧倒的な没入感だ。架空の人物であるはずのエイミーとエルマが、あたかも実在する人物のように感じられる。映画や小説を鑑賞する感覚に近い。コンポーザー n-buna(読み:ナブナ)の思想が強く反映された歌詞は文学的、哲学的であり、同時に幾重にも解釈の余地が残されていた。誤解を恐れずに言うならば、それはポップ・ミュージックとしての聴きやすさを前提にしながら、決して"わかりやすい作品"ではなかったと思う。だが、それが、オリコン初登場5位(『だから僕は音楽を辞めた』)と3位(『エルマ』)を記録したのだ。ことに、"アルバムよりも1曲ずつ聴かれる時代"、"明快でインスタントな音楽が好まれる傾向"と悲観されがちな音楽シーンだが、それとは対照的なあり方を突き詰めたヨルシカの作品は、音楽に新しい可能性を見いだすものであり、ヨルシカにしか表現できない境地へと辿り着いた偉大なる発明だった。


その続編となるのが『盗作』だ。今作は"音楽の盗作をする男"を主人公とした新しい物語。これまで同様全14曲中に効果的にインスト曲が挟まれ、初回生産限定盤には、約130ページにも及ぶ小説"盗作"がつく。もちろん音源だけを聴いても、十分に作品の魅力は伝わるだろうが、前述の2作品を手紙、日記と共にひもといたリスナーであれば、この作品をより深く楽しむためには、付属の小説が重要な手がかりになることは想像に難くないだろう。

アルバムは、ベートーヴェン「月光」をモチーフにしたインスト曲「音楽泥棒の自白」から幕を開ける。深い陰りを帯びたその厳かなムードは、続く「昼鳶」で、強烈なアコースティック・ギターのスラップにより打ち破られる。そこに重なるsuis(読み:スイ)のヴォーカルは少年のように中性的だ。かつて"透明感のある"という形容詞で表現されることの多かったsuisのヴォーカルだが、今作ではより表情豊かに、楽曲に込められた嫉妬や破壊衝動、飢餓感といった負の感情にも寄り添っていく。結成から3年。n-bunaが生み出す楽曲の誠実な理解者であり続け、深い洞察力と豊かな想像力をもって、その歌に声で命を吹き込んできたsuisがヴォーカリストとして切り拓いた新境地は、『盗作』という作品を語るうえで特筆すべき点だと思う。

"音楽の盗作をする男"の物語とはどういうものなのか。その片鱗は、アルバムに先駆けて配信されていた「春ひさぎ」や「思想犯」といった楽曲でも垣間見られ、YouTubeに寄せられたコメントも糸口にして、ネット上では様々な解釈や憶測が飛んでいた。江戸時代の花魁のような艶やかさを纏った「春ひさぎ」は、春をひさぐ=売春を表す隠語であることから、"商売としての音楽"のメタファーとして機能する曲だという。また、「思想犯」には以下のように書いている。

"思想犯というテーマは、ジョージ・オーウェルの小説「1984」からの盗用である。そして盗用であると公言したこの瞬間、盗用はオマージュに姿を変える。盗用とオマージュの境界線は曖昧に在るようで、実は何処にも存在しない。逆もまた然りである。オマージュは全て盗用になり得る危うさを持つ。この楽曲の詩は尾崎放哉の俳句と、その晩年をオマージュしている。それは、きっと盗用とも言える"


これは創作活動に身を置く者ならば一度は頭をよぎる命題だと思う。創作とは、衝動や欲求に身を委ねて生み出すべきなのか、ある種の方程式に則って売れ線を狙うべきなのか。そのどちらが優れているのか。あるいは、盗作とオマージュの違いはなんなのか。そもそも数百年、人類が積み重ねてきた音楽の歴史の上に立ち、この21世紀に純然たるオリジナルなど成立しうるのか。それらは、『だから僕は音楽を辞めた』や、『エルマ』という作品の中でも潜在的に表現されていたことでもある。オスカー・ワイルドの作品至上主義に絶大な影響を受けたエイミーが、『だから僕は音楽を辞めた』を作り、それを模倣してエルマは『エルマ』を完成させた。そういった継承の連鎖について、当時のインタビューでsuisが"呪い"という言葉で表現したのが印象的だった。表現者は、自分自身を形作ったルーツ・カルチャーの呪いから決して逃れることができない。それを偽悪的な言葉で表現すると"盗作"という言葉になるのだと思う。

さらに、アルバムでは、"音楽の盗作をする男"が抱える鬱勃とした感情の数々が抉るように表現されている。インディーズ時代に発表されたミニ・アルバム『負け犬にアンコールはいらない』(2018年)からの再レコーディング曲「爆弾魔」で歌われる破壊衝動、アルバムの表題曲でもある「盗作」で繰り返し歌われる枯渇感と、"この心を満たすくらい美しいものを知りたい。"という妄執。「花人局」に刻まれた別れの記憶や孤独。また、偽物とはなんなのか、本物とはなんなのか、そんな曖昧な価値観に翻弄される「レプリカント」は、常に他人の評価を受ける表現者の苦悩にも聴こえた。そんなふうに"音楽の盗作をする男"の荒んだ心を描きながら、アルバムの節々には男の美しい思い出の象徴として、"夏の匂い"やいくつもの花々が印象的に描かれる。それがなんとも物悲しいのだ。


それぞれの受け手がどんな人生を歩んできたか、それが音楽の解釈や価値を決める唯一の尺度ということだ


"音楽の盗作をする男"の破壊衝動が行きつく先には何があるのか。それはアルバムの終盤に収録される「夜行」、「花に亡霊」まで聴き終えたとき、それぞれのリスナーの中で自ずと解釈されることになると思う。最後のナンバー「花に亡霊」についてn-bunaは自身のTwitterで、"ただ綺麗な言葉と景色を並べただけの歌を書こうと思いました。この曲で何を伝えたかっただとか、表現したかったかとか、そういうのは何も無いです。受け取り方は任せます"と書いている。「レプリカント」の中で"この世の全部は主観なんだから"とも歌われるように、それぞれの受け手がどんな人生を歩んできたか、それが音楽の解釈や価値を決める唯一の尺度ということだ。


今作『盗作』を含めて、最近のヨルシカの作品では音楽家が、音楽の中で、音楽と向き合う姿勢そのものをテーマにするという手法を貫いてきた。それは、とても勇気が必要なことだと思う。正解はないからだ。例えば、n-bunaは作品至上主義的な立場を取り、音楽を聴くうえで作り手のバックボーンは切り離すべきという。だから、顔出しもしない。だが、アーティストとリスナーが物語や場所を共有することで生まれる尊さがあることを、よく知っている人でもある。要するに、どちらが正しいという話ではないのだ。どんな思想の音楽でも、受け手が本物だと思えば本物であり、偽物だと思えば偽物になる。100人の内99人が駄作だと言ったとしても、誰かの心が確かに震えたとしたら、それはその人にとって紛れもなく本物だ。今作『盗作』が伝えるのは、そんなふうに自由な感性で音楽を楽しんでほしいという作り手の願いそのものだと思う。それは同時に、偏狭的な正義感で作品の良し悪しが語られがちなSNS時代への、警鐘とも言えるのかもしれない。


▼リリース情報
ヨルシカ
ニュー・フル・アルバム
『盗作』
[UNIVERSAL J]
NOW ON SALE
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【初回生産限定盤】CD+小説+カセットテープ
UPCH-7562/¥5,000(税別)
amazon TOWER RECORDS HMV
"盗作"書籍仕様
・小説"盗作"付き
・少年が弾いた「月光ソナタ」カセットテープ付き

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【通常盤】CD
UPCH-2209/¥3,000(税別)
amazon TOWER RECORDS HMV

[CD]
1. 音楽泥棒の自白
2. 昼鳶
3. 春ひさぎ
4. 爆弾魔
5. 青年期、空き巣
6. レプリカント
7. 花人局
8. 朱夏期、音楽泥棒
9. 盗作
10. 思想犯
11. 逃亡
12. 幼年期、思い出の中
13. 夜行
14. 花に亡霊

配信はこちら 特設サイト

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