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INTERVIEW

Japanese

DURAN

2018年11月号掲載

DURAN

インタビュアー:TAISHI IWAMI

a flood of circleやThe ROOTLESSなどの元メンバーで、稲葉浩志や清春、スガ シカオ、EXILE ATSUSHIといった、トップ・アーティストたちのサポート・メンバーとしても名を馳せるギタリスト、DURANのソロ・デビュー作『FACE』は驚きと刺激に満ちたものだった。彼のルーツである伝統的なロックだけでなく、モダンなディスコやR&B、EDMやヒップホップなどの要素をふんだんに取り入れ、打ち込み主体で制作。中には極端にギターを抑えた曲もある。それはギタリストとしての新しい存在証明なのか、生粋のバンドマンたるを逆説的に示すものなのか、もしくはプレイヤーとしての荷物を降ろした姿なのか。その答えを探るべくインタビューを決行。最終的には生演奏とテクノロジーのハイブリッドにある価値が浮かび上がってきた、貴重な時間となった。

-まずは、DURANさんがギターを弾くようになるまでの話から聞かせてもらえますか?

父がフィリピンとスペインのハーフで、フィリピンのバーなどでショー・タイムに演奏するバンドをやってたんです。で、日本にも昔は米軍基地とかいろんなところにそういう場所があったらしく、出稼ぎにきたときに母と出会って僕が生まれました。だから、物心ついたころには気軽に楽器を触ることができる環境にありました。しばらくして、ピアノを無理矢理習わされたのが、本格的に楽器を弾くようになった最初のきっかけです。

-嫌だったんですね。小学生の男の子がピアノをやってると友達にいじられたりしませんでした? なぜか子供には女の子の楽器というイメージがあって。

そうなんですよ。それもあってピアノが大嫌いで、稽古になるとよく逃げてました。でも、今となってはありがたいなって思えます。ピアノって他の楽器にも移りやすい。だからギターを弾きたいと思ったときにもすんなり入ることができました。

-"移りやすい"というのは、どういうことですか?

耳が音に慣れてたんです。どこにどの音があるか、すぐにわかりました。

-なぜギターを弾きたいと思ったのですか?

中学生のころはバンドが流行ってたんです。GLAYとかLUNA SEAとか。X JAPANは一度解散してた時期だったんですけどみんな好きで、僕も友達とバンドを組んでコピーしてました。

-海外の音楽ではなかったんですね。

父の影響でLED ZEPPELINやDEEP PURPLEはよく聴いていて好きだったんですけど、周りに知ってる友達がいなくて。

-そこからプロになったのは、どのタイミングですか?

高校はフィリピンのアメリカン・スクールに通ってたんです。で、さっき言った父が演奏していたようなバーのショー・バンドに交ざって弾かせてもらったり、そんなことを18歳くらいまでやっていて、そのあと少しアメリカにも行って、似たようなことをやってました。

-私は日本国内のアメリカン・スクールの状況を外から見ているだけなので、イメージでしかないんですけど、当時の一般的な国内の高校と比べると、様々な人種の人たちが一同に学ぶことと、教育において、とりわけ個性が尊重されるという点が異なっているような気がします。

おっしゃっているイメージに近いと思います。人種も考え方も違うし、日本にいたころの僕にとって当たり前のことがそうではなかった。これは僕が日本の中学にいたときまでの話で、僕の目線でしかないかもしれないですけど、日本だと教育や趣味ですらも、集団というか、"みんな一緒"っていう感覚がありましたね。でも、アメリカン・スクールだと、すべてがそれぞれの個性の話になってきます。だからこその厳しさもあって、成績がダメだったら容赦なく自分ひとりだけ進級できないですし。そういう部分は今考えると、とても役に立ってると思います。

-様々な音楽も吸収できたと思うんですけど、いかがですか?

僕個人の趣味としては、ギター少年がよりテクニカルな方向に向かっていってた感じでした。DREAM THEATERとか大好きで。でも、周りの友達は全然違って、そこでヒップホップとかにも触れられて、自分の好きなもの以外は認めないみたいな感覚はなくなっていったように思います。

-そこから日本に帰国してからはどんな動きを?

MI TOKYOっていう音楽学校に入りました。その傍らギター講師のバイトをしたり、インストのバンドをやったり。そういう環境だったからか、プレイヤーとしての考え方は、ますます技巧派に寄っていくんです。"歌が主体にあるようなバンドはダサい"とか仲間と話してましたから。でも、フィリピン時代にいろんな音楽を聴いていたこともあったと思うんですけど、"そもそもやったこともないのに文句を言うってどうなんだろう?"とか考えるようになって。そこで、バンド募集のオーディションを受けまくって、合格して入ったのがThe ROOTLESSです。

-そこで、いきなりレコード・デビューしてヒット曲も生まれた。

いい経験だったと今は思いますけど、正直当時はつらかったです。タイアップありきのオーディションで集まったバンドだったんで、自分がやりたいことを見失うし。だからやめたんですけど。

-そのあとa flood of circleに。

はい。同時期にundervarでの活動も始まりました。

-a flood of circleはThe ROOTLESSとはある意味対象的で、これぞライヴ・バンド。

そうですね。めちゃくちゃライヴ・バンドだし、"生々しいところに来ちゃったな俺"って。そんな佐々木(亮介/Vo/Gt)君やメンバーのことが好きで、すごくいい経験になりました。

-そしてundervarも並行して活動しながら、Made in Asiaも始められます。

Made in Asiaは自分で作ったバンドとはいえ、3つのバンドを同時にこなすのがキツくて、身体も脳も追いつかなくて逃げたくなったこともありました。全バンドのツアーが重なると、もはや自分がどこにいるかもわからなかったです。