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INTERVIEW

Japanese

リコチェットマイガール

2015年07月号掲載

リコチェットマイガール

Member:稲荷直史(Vo/Key)

Interviewer:山元 翔一

決して自分は物語の主人公にはなれない、そういう人間でも輝く瞬間はあってもいいんだと思う。これはリコチェットマイガールの中核を担う稲荷直史の根底にある思想だ。このいわゆる文化系人間の持つ宿命的なコンプレックスが原動力となり、日陰者としての自分を"スタンダード"へと押し上げるべくして2ndミニ・アルバム『ランドリー』は作り上げられた。これは没個性化する社会に対するある種のアンチテーゼなのだろうか? その答えに迫るべく稲荷に話を訊いた。

-まず、基本的なことから訊いていきたいのですが、バンド名はくるりの「Ricochet」(カップリングベスト『僕らの住んでいた街』収録)という曲が由来とのことですね。

そうですね。僕はもともと別のバンドでドラムをやっていたのですが、ヴォーカルをやるぞと思い立って。サポート・メンバーを集めたソロ・プロジェクトという形としてスタートしたので、僕がひとりで決めたんですけど。そもそも僕がくるりの「Ricochet」っていう曲を"リコチェット"と読み間違えて(笑)。

-まあ、そう読めないことはないですよね(笑)。

(笑)この曲の"君みたいな奴は百人くらい居るんだろう"っていう"別に君じゃなくてもいい"みたいな歌詞で。すごくいいなって思って。前のバンドがなくなって新しくバンドを始めるにあたって、バンドを続けるか辞めるかって考えていたときに背中を押してくれた人が亡くなってしまって。だからバンドをやるからには――"マイガール"っていうのは大事なものの比喩で、"リコチェット"(リコシェ)っていうのは弾き返すっていう意味なので――"大事なものを突き放してでもバンドをやっていこう"っていうような気持ちで。あとはBUMP OF CHICKENとかASIAN KUNG-FU GENERATIONとかみたいに3単語のバンド名がかっこいいっていう、僕の中で必勝パターンみたいなものがあったんで(笑)。

-"マイガール"という言葉を大事なものの比喩として用いた理由は?

くるりの曲から連想したっていうのと......まあ、別に僕にマイガール的なものがあったというわけではなんですよね(笑)。僕がその、いわゆる"ガール"みたいなものに対して昔からずっと空想を描いていて。"こういう女の子と暮らしたいな"みたいなことを中学生くらいから妄想みたいなことをしていて。

-なるほど。稲荷さんはどんな学生時代を送ってきたんですか?

僕は、グループがあるとしてその中心から2~3歩離れた場所にいるような人間でした。小学校低学年のころ、背が大きくて運動ができなかったのでちょっといじめられてて。そこからお笑いとか好きになっていじられるようになって......3~4番手、まあ5人いるとしたらイエローかグリーンみたいな(笑)、ところにずっといて。だから最初自分がヴォーカルやるってことが全然ピンとこなくて。あと僕、ずっと運動部だったんですけど、今こうやってインタビューを受けたりライヴでMCしたりすることが当時だと全然考えられなくて。陰湿な陸上部員だったので(笑)、人の目に触れないところにいました。机整頓係みたいな(笑)。

-いわゆる日陰者的な立ち位置にいたんですね。そういう立ち位置の人で、音楽だけが救いだったっていう思いを抱えていたひとって多いのかなと思うのですが、稲荷さんが音楽に興味を持ったきっかけって何だったんですか?

僕の家族や親戚がみんなピアノが弾けたり、エレクトーンの先生がいたりっていう家庭だったんですね。小学校のときは運動が好きだったのでピアノは特にやっていなかったんですけど、中学校入る直前くらいに......何がきっかけだったのかな、母親が家でずっとMr.Childrenとジャニーズを聴いてて。SMAPとか聴いてて、それがすごくいいなって思って、ピアノ弾いてみるのもいいのかなって。それがほんとに最初の最初ですね。

-Mr.Childrenとジャニーズのどういったところに惹かれました?

最初は単純に歌を歌っている人ってかっこいいなって思って。あとは母親が"この曲は歌詞がいい""この歌はBメロがいい"って言ってて。しかもMr.Childrenなんでちょっとエッチな歌詞があったりして......「ファスナー」(『IT'S A WONDERFUL WORLD』収録)っていう曲とか(笑)。そのときは全然わからってないですけど、"歌詞がいい歌はいい曲なんだ"って。そういうところから、音楽を聴いてて"こういう歌詞がいいな"って思うようになってきましたね。

-ということは"歌"がまずあって、そこからピアノを始めたと。そこからどういうように聴くようになっていきましたか?

そこから友達の影響で音楽を聴くようになったりして......TSUTAYAでCDを借りるのがかっこいい、CD借りてMDに入れて聴くのがかっこいいみたいなのあるじゃないですか(笑)。本当に最初はスピッツの『正夢』とBUMP OF CHICKENの『車輪の唄』っていうシングルを初めて借りて。そこからいわゆるバンド・サウンドを聴くようになっていきましたね。

-そこでも興味を持ったのは"歌"だったんですか?

歌と......でもそのときはもうピアノを弾き始めていたので、楽器を弾くのが楽しくて。ギターとベースがあってドラムが鳴ってて、みたいに漠然と演奏も聴いたり。そのときは声変わりしてたので"歌うのやだな"って思いながらも、楽器弾くのは楽しいなって思ってました(笑)。

-そこから高校でドラムを始めると。そのきっかけは?

高校で陸上部と軽音部を兼部していて。最初はベースをちょっと弾いてたんですけど、小さい高校だったので人数が少なくて。ドラムがいないからバンドができないってなって。ベースにこだわるというよりバンドやりたいなって思ったので、それがきっかけですね。

-そこから先ほどおっしゃられた解散してしまったバンドを組んだんですよね。

そうですね。最初はコピー・バンドをやっていて、"人の作った曲って難しいし自分で作っちゃおうかな"って思って。そこから自分たちの曲を作るようになって。そのときにはある程度ピアノが弾けていたので"じゃあ僕が作るよ"って。そのバンドでは僕以外がみんな後輩だったっていうのもあって、僕がピアノとかで作った曲をギターとかベースで弾いて渡して。それで僕はドラムを叩くっていう(笑)。お前は何なんだって(笑)。まあ、それはうまくいかなかったですね。

-高校生だしなおさら難しい部分ありますよね。何で俺が作った曲なのに俺はドラム叩いてんだ?って(笑)。その出発地点の段階で伝えたいことや表現したいことってもともとあったんですかね?

僕が引っ込み思案だったっていうのもあって、表立って言葉にするのが苦手だったんですね。今も得意じゃないですけど。だからそれをするのに曲を作って誰かに聴かせるのが表現方法のひとつとしていいなって思って。ドラムを始めるとかいう以前からちょっとずつ曲は作ってたんですね。