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INTERVIEW

Japanese

女王蜂

2015年04月号掲載

女王蜂

Member:アヴちゃん (Vo)

Interviewer:天野 史彬

-「始発」をショッキングだと言った人たちは、この曲の歌詞とサウンドが合致した部分に何か感じることがあったのかもしれないし、この曲の中にある2つの感情――プラットフォームに誘われている心と、それでも生きることを選択する心、その2つの心理描写の対比に肉体性を感じたのかもしれないですよね。

そう、そうかもしれない。"プラットフォームが誘っている"っていうことは"死"っていうことだし、それはイコール、私にとっては(恋愛の相手と)諦めてずっと一緒にいることだし、でも、それとも......って。"あの日の改札を思い出す"っていう言葉でこの曲は締まっているんですけど、2枚目のアルバムの最後に「燃える海」っていう曲があって。その曲は"改札を通るときに言った冗談 明日僕が死んだとして君はどうする?"っていう歌い出しから始まっている、"明日あなたが居なくなってもあたしは生きてくわ"っていうことを歌った曲なんです。あれを書いたころからちょっとお姉さんになって、「始発」で無意識に"あの日の改札を思い出す"って書いて。書き上げてしばらくしてから、"これってあの改札じゃない?"って気づいたんです。だから、自分にとってもドラマがある曲というか......"一枚絵なんだな"って思いましたね。......あと私、これは今回が初めてだったんですけど、「始発」と「髪の毛」を録っているとき、初めてレコーディング中に嗚咽が出るほど泣いてしまったの。歌詞をノートに書き写しているときも涙が止まらなかった。今までそんなことなかったから、"客観性どこ行った?"って震えちゃったけど。

-「始発」と「髪の毛」は、どうして涙が出るほど感情的になってしまったんでしょうね?

ほんまにボロッボロの最中だったからかな。この2曲はほんと、すごく自分のことを歌っていて、でも"みんなの歌"っていうか。

-それでもやっぱり、"みんなの歌"には必然的になってしまうんですね。

そう、根本の部分で、私は本当に自分に興味がないんですよね。自分が他人。手足とか顔とか......身体って、入れ物にしか過ぎないから。自分のことってどう説明します? 私って、世代的にはブランディング世代やし、セルフィー世代やけど、でも、どんな髪型をしていて、どんな服を着ていて......とか、説明すればするほど入れ物になった気がしません? 自分の性格も説明すればするほど、中身すら入れ物になった気がして。触っちゃダメだと思うんですよね、自分のことって。人のことも同じように触っちゃいけない部分があるし、まぁ触って欲しがってる人もいるから触ってあげたりするけど(笑)、私は自分にノータッチなんですよね。やっぱり、お人形みたいなのかな。

-ふ~む......なるほど。あ、あと、僕は「折り鶴」が好きなんですけど、この曲って、言ってしまえば救いようのない曲ですよね。性的な暴力を振るわれた女の子に、最後にはその暴力によって子供ができていて......って。でも、ここで"子供"という存在が歌詞に出てくるのが大きいことだなって思ったんですよ。こうやって残酷さの中で生まれてきた子供に"世界"とか"生きる"っていうことを説明して、そのうえで"この世界は生きていく価値があるよ"って言っているのが、この『奇麗』っていうアルバムなんじゃないかって。

はぁ~、素敵だわ、とっても! リスナーとしてそう捉えてくれたのなら、そこは"To be Continued"にしておきたいけど......でも、私の中で「折り鶴」はニュースみたいな曲っていうか......どうしようもない曲ですよね、これ(笑)。女王蜂としてはパワースポットみたいな曲ですね。状況が変わっていくことの凄まじさを転調していくことで表現できたと思うし。まぁ、表現とか何も考えずに、"いえーい、めっちゃカッコいいー!"とか言いながら作っただけなんですけどね。この歌詞、面白いですよね。

-うん。でもどうして、そうやって気負わずに自然と生まれてきた楽曲の中で、こんなに残酷で悲しい景色が描かれているんだと思います?

え~、なんででしょう......それも、自分が他人だからかな。私にとっては悲しいも楽しいも俯瞰だから。お腹がいっぱいなときの安堵感みたいな絶対的なものは、共感できますよね。でも「折り鶴」で歌っているようなことは、瞬間風速でしかないから。例えば次の曲の「売春」も、結構ショッキングって言われるんです。でも結局、"あたしが売る春 僕が奪う春"であり"あなたが被害者 きみは支配者に"なんですよ。そういう関係って、女の子が年下の場合、優位なのは女の子ですよね。"○○さんに、いたずらされたんです"って言えば相手はお縄なわけですから。そうやって俯瞰で見ているから書けたんかな。どっちにも采配を置くんですよね。女の子が9で男の人が1とかはない。女の子にパワー・ポイントを持たせて、男の人を滅多打ちにするような曲じゃないんですよ。男も女も全員、体力も素早さもゲージを同じにしておいて書く、みたいな。

-うんうんうんうん......なるほど。

だから「折り鶴」も、植物人間になってしまった男の子は、事故に遭わなかったら同じところにいるはずだし、トラックの運転手のお兄ちゃんは、あくまで飲酒運転やし、男の子は片親で、そのお母さんは保険料滞納してるから医療費を払えへんし、女の子も"卒業して次の場所で華々しく恋愛するんや!"って思ってたらつわりがきて、"どうしよう、お母さんに言わな......"っていうところでこの曲は終わっているし......全員、ゲージが一緒じゃないと書けない画なんですよね。誰かひとりに対して強くなってしまうと、誰かをハッピーエンドにさせたり、アンハッピーエンドにさせることしかできない。でも私は、全員同じように牌を置いている感じはしますね。

-なるほど。じゃあ、ここで歌われる悲しみとか残酷さは、全員に等しくある"普通"なことなんですね。

そう! そうそう、超普通! 昔は結構、瞬間風速で誰も入れないような景色を書こうと思っていて。だからこそ優しくなれたし、強くなれたし、男が入れない"女の園"感があったと思うんですけど、今回はみんなゲージが一緒っていう感じがしますね。弱い人がいないっていうか。それはやっぱり、人を優遇しない私のもともとの感じもありますね。私は全部に優しい、博愛なんです。曲も全部、平等に愛していますから。

-"自分は典型的な人間だ"とか"悲しいも楽しいも俯瞰だ"なんて、そう簡単に言いきれるものじゃない......やっぱり、これはアヴちゃんだからこそ言える言葉なんだと思うんです。人の"営み"とか"生きること"を俯瞰で見る視点っていうのは、やっぱり、もうずっとアヴちゃんの中にあるものなんですか?

うん。でも、恋愛して余計にその感じは強くなった気もしますけどね。"この人だけは!"って思ったんですよ、ほんとに。全部捨てたってよかった。何もかも捨ててよかった。だけど、捨てられなくて......。女王蜂は私にとって概念だから捨てることができないし、捨てる必要もない。だから、すべてにおいてその人の存在が勝つって思ってたんです。だけど、でもそれって全部、私の優遇、特別視だから。なので、それ(恋愛)が終わってパッと自分の表現に戻ったときに、本当にフラットになったんだと思います。このアルバムは、すごくフラットなアルバムなんですよね。今までは歪なものを追い求めてきたけど、今回は更地にものを建てた感じがします。