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INTERVIEW

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近石 涼

近石 涼

Interviewer:吉羽 さおり

神戸出身のシンガー・ソングライター、近石 涼。その音楽は、様々な道の岐路に立つ人の心や、ぼんやりとした鈍痛を抱えるような苛立ちや悲しみを掬い上げて、生々しくリアルなまま歌に、ギターに託す。感情の機微や瞬間的なきらめきを逃さないように、熱量の高いままパッケージした曲で、ライヴハウスを中心に活動を続けている。8月にリリースしたシングル「ライブハウスブレイバー」はまさに上記のタイプの曲だが、9月8日リリースの「兄弟 II」はまたひと味違う、音楽的な楽しみに富んだ曲で近石 涼の自由で柔軟なスタンスが表れた曲になっている。聞けば、面白い音楽の遍歴があって、その裾野はまだまだ広がりそうだ。

-8月にリリースしたシングル「ライブハウスブレイバー」は、ライヴハウスで歌う自身のリアルな体験や切実な思いが綴られた曲ですね。このタイミングでライヴハウス、ライヴをテーマにした曲をリリースしようというのは、どういった思いからですか?

この曲は2~3年前に作った曲で当時は弾き語りで歌っていたんです。それで、"eo Music Try 19/20"のオーディションに出させていただいたときに、この曲をバンド・セットで、ライヴで歌って。そのときに今の事務所にすごくいいと言ってもらって、MVを出してみましょうとなって、いろいろな人に関わっていただいた曲だったんです。タイミング的にも今はコロナ禍でライヴハウスがなかなか厳しい状況のなかで、それでも歌い続ける人にリスペクトを持っているので、そういった意味でもこのタイミングで出すことに意味があるんじゃないかなと思いました。

-曲を作ったとき、その当時の心境というのはどういうものだったんですか?

当時は、ライヴハウスにライヴを観に行くという文化が、以前のバンド・ブームの頃と比べると徐々に少なくなってきているのを感じていて、周りのアーティストもそんな感じでやっていたと思うんです。シンガー・ソングライターとして、自分の本当のことを曝け出すということを大切にしたいと思っていたなかで、当時一番思っていたことが、ライヴをやってることに対する葛藤や苦悩だったので。それをそのまま歌にしてみたらと思って書いた曲だったんです。

-曲の中で、"自信がなくて/歌うのを辞めた"というフレーズがありますね。

期間的にはどのくらいだったか定かではないんですけど、このままじゃ無理やなと思ったし、客観的に観ても誰かが来たいと思えるようなライヴをできているかと言われたら、自信を持ってそうだと言えなくて。それでも、ライヴはやりたかった。でも、現実的にこのままじゃ続けられへんなと思ってやめていた時期はありました。

-そうした苦しい時期に、何か意識的にし出したことはあるんですか?

まずどういう曲を作ったらとか、歌をどう歌ったらいいかとか、もう一度というか──もう一度と言えるほど、当時音楽に向き合えていたのかわからないですけど、しっかりと音楽と向き合っていた時間ですかね。

-そうだったんですね。そういった心の動きと共に、近石さんの音楽遍歴もうかがっていきたいと思いますが、音楽自体は小さい頃から身近にあって、触れる機会は多かったようですね。

そうですね。母がピアノの先生をしていたので、自分も物心つく頃からピアノを弾くとか、家にもずっと音楽が流れていたんです。Stevie Wonderとかブラック・ミュージックは家でよくかかっていたと思います。そういうことでは身近にはありました。ただ今思うと、中学入るまでは自分から能動的に聴いていた音楽はなかったですね。

-音楽から16ビートが聞こえるような感じは、幼い頃からそういったブラック・ミュージックが流れていたこともあるんでしょうかね。

今に繋がっているのかは定かでないですけどね(笑)。あとは、郷ひろみさんや槇原敬之さんがよく流れていました。自分で音楽を聴き出したのは中学校の頃で、EXILEとか湘南乃風とか、友達の間で流行っていた曲を自分も一緒になって聴いてカラオケで歌ってという感じで。でも、初めて買ったCDはスピッツとマキシマム ザ ホルモンでした。

-ずいぶんと両極端ですね(笑)。

今思うと変な組み合わせのものを聴いているなという感じですね(笑)。分け隔てなくいろんなものを聴いていました。ただ、深いところまで音楽を掘るような友達も周りにいなかったので、マイナーなところまで幅広くというわけではなかったんですけど。

-子供の頃にピアノをやっていて、いいなっていう曲を耳コピしてみたり、自分で何か作ったりということはありましたか?

耳コピはしてないんですけど、小さい頃に感性に任せて即興というか、その一度しか弾けないような曲を入り込んで弾いてるホーム・ビデオの映像があって(笑)。デタラメを弾いているんですけど、たまにすごいフレーズやなっていうのがあるんですよね。音楽大学に行っている10歳上の兄がいるんですけど、"ここ、天才すぎるわ"って(笑)。昔からそういう、天才を気取ってる感じはありました(笑)。

-幼い頃から音楽の素養というか、音への興味や好奇心など、沸きたつものを音にするというのがあったんでしょうね。そこから学生時代はギターを始めたり、バンドをやってみたりもするんですか?

中学卒業くらいのタイミングで、友達がBUMP OF CHICKENのCDを一気に7枚くらい貸してくれたんです。それまでEXILEとかを聴いていた僕の頭には、あまりに違ったタイプの音楽で、すごい衝撃が走って。面白いと思って聴き続けていたら、ハマっていきました。その貸してくれた友達がギターで、バンプ(BUMP OF CHICKEN)の曲のちょっとしたフレーズを弾いていたんですけど、初心者でも、プロが作った、プロが演奏しているフレーズでも弾けるものがあるんやって感動して。"俺もギター買う!"ってなって、そこからめちゃくちゃのめり込んでました。友達はあまり続かなかったので、いつの間にか僕だけギターを弾いてた感じでしたけど。

-漠然とでも、自分も音楽をやりたいなっていう思いは芽生えていたんですか?

そうですね。僕ずっとサッカーをやっていて、夢を語るのは恥ずかしいみたいなこともあったし、ぼんやりとした夢やったんですけど、歌手にはなるんやろなっていうのは思っていたんじゃないかなと思います。

-自分で曲を作ったのは?

高校生の頃、ぼんやりと作ろうとはしていたんですけど、まだ知識もなくギターも耳コピとかばかりしていたので。それこそ幼稚園の頃と同じような感じで、知識がないなりに感性で曲を作ろうとして、暗い曲を作っていた記憶はあるんですけど、じゃあそれをどこかに出したかといったら、出してなかったかな。"閃光ライオット"の本戦のオーディションで1回歌った気はするんですけど、そこから別に勝ち進むこともなかったので。

-自分で暗い歌だと言っていましたが、どんな感情を描いた曲だったんでしょう?

僕は小さい頃からネガティヴというか、被害妄想が激しい感じで。悲劇の主人公を気取るような子やった気がしていたんです。自分の中の苦しみは誰にも理解されないんだみたいな。ちょっと変わっていたので、いじめまではいかないかもしれないですけど、喧嘩したりイジられたり仲間外れにされたりで、泣き虫でもあったので、よく泣いていました。そういう悲しい感情や葛藤を曝け出せるような場所が音楽やった気がしますね。今でこそ明るい曲を歌うこともしますけど、当時ギターを使って自分の歌を作って何かを表現するということでは、一番自分の中で外に出したいのがそんな気持ちやったんやと思います。

-それは、BUMP OF CHICKENを聴いている気持ちとも重なるところがあったんでしょうか? こういう気持ちを持っていてもいいんだなというか。

そうですね。BUMP OF CHICKENの曲にはいろんな幅があって、楽しいとか、そんな感情だけじゃ生きていけないよねっていう。つらいとか、苦しみとかがあることをちゃんと描いてくれているというか、そういう気持ちも拾ってくれる曲で。でも、僕が当時書いていた曲は、そこから前に向いてなかったんですけどね(笑)。普段言えない思いを赤裸々に表現するとか、「ライブハウスブレイバー」にしても歌っていることは今も一緒だと思うんですけど、今と昔と違うところは、それでも最後は前を向こうというものになっているところだと思います。

-大学時代にはアカペラもやっていたそうですね。バンドやシンガー・ソングライターにそのまま進むのでなく、アカペラにっていうのは珍しいですね。

アカペラに関しては高校時代に友達に誘われて、サッカー部内でメンバーを集めて歌っていたんです。ちょうど"ハモネプ"(テレビ番組"青春アカペラ甲子園 全国ハモネプリーグ")が流行っていた頃だったんですよね。それで、高校のときに一緒にアカペラをした子が、現役で神戸大学のサークルに入っていて。僕は1年遅れて入学して、"体験来てみない?"って誘ってもらって。行ってみたらびっくりするほど歌が上手い人がいたんです。今までそんな人に出会ったことがなかったので、感動したんですよ。ここでこの人に教えてもらったら歌上手くなるんじゃないかなって、ボイトレ感覚で行ったのがきっかけでした。

-そこからのめり込んでいくんですか。

自分は今まで歌が上手いと思っていたのに、アカペラ内で言うとハモらない声をしていて。アカペラって、結構没個性みたいなところが正義というか、そのなかでも個性を出せたらいいんですけど、とりあえず溶け込むというところが大事なんです。自分が、そういうところをできなかったのがまた衝撃だったんですね。あとはアカペラの場合、既存の曲をアカペラにアレンジして、自分らで楽譜を書いてやるんですけど、そういうところですごく知識が必要で。いろんなことが勉強になったし、当時弾き語りの活動も始めていたんですけど、自分のシンガー・ソングライターの活動にも活かせるというのがあって、アカペラにのめり込んでいましたね。