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INTERVIEW

Japanese

ヒヨリノアメ

2019年07月号掲載

ヒヨリノアメ

Member:AKI(Gt/Vo) 萩谷 尚也(Ba) 大橋 ユウト(Key) 山崎 一樹(Dr) プロデューサー/それでも世界が続くなら:篠塚 将行(Vo/Gt)

Interviewer:吉羽 さおり

ヒヨリノアメの音楽にはよく、雨や涙が降っている。その雨音にも似たサウンドは、少しだけ上手にいかなかったことを柔らかに隠してくれたり、あるいは残酷に晒してみたりもする。ドラム、ベース、ギター、キーボードで丁寧に編み上げて、率直な言葉をひとつずつ置いていくような音楽は、静かで、永遠のような物思いの時間を描く。この想いがいつか誰かに届くように。そんな願いのようにも聞こえてくる音楽だ。水戸で始まり、現在は都内を中心に活動する4ピース、ヒヨリノアメの1stミニ・アルバム『記憶の片隅に』がリリースとなる。彼らが信頼するそれでも世界が続くならの篠塚将行をプロデューサーに迎え、ライヴのような臨場感のあるアンサンブルをパッケージした今作で、全国デビューする。ヒヨリノアメのメンバーと、プロデューサー 篠塚も交えて話を訊いた。

-このバンドは、もともとは高校生のときに結成しているんですね。

AKI:自分が高校2年生のときに組んだバンドですね。高校に入ってから弾き語りでひとりで活動していたんですけど、それがきっかけでライヴハウスで出会った仲間と組んだのがこのヒヨリノアメです。

-みなさん同じ学校ではなかったんですね。

山崎:僕と大橋は中学が一緒ですね。

AKI:まず山崎と僕がライヴハウスで知り合って。山崎が前にやっていたバンドがなくなったタイミングで一緒にバンドをやろうとなって。それで山崎がピアノの大橋を連れてきたり、最初のベースを連れてきたりして、結成した感じでした。

-AKIさんはもともと弾き語りから活動を始めたということですが、最初はバンドには興味がなかったんですか?

AKI:いえ、バンドはずっとやりたかったんです。高校に軽音部がなかったので、周りにもバンドをやりたい人や楽器を弾ける人がいなかったから、とりあえず自分ひとりでやろうと思って。ギターをちゃんとやり始めて、自分で曲を作って歌い始めて、最初は路上でやってましたし、ライヴハウスでも歌うようになって。活動をしながら、"これ、もしかしたらそのうちバンドを組めるかもしれない"っていうのは、なんとなくありました。

-みなさんはどういう音楽が好きで、バンドを始めようと思ったんですか。

AKI:最初は小学校低学年の頃、BUMP OF CHICKENが人気で。だんだんと、ドラムやベース、ギターがいて、ライヴハウスとかでやるのがバンドなんだって思い始めた頃でもあったので、そこがきっかけでしたね。それで自分でもバンドをやりたいと思っていたんですけど、中学時代もまずどうやったらいいのかわからない感じでしたね。家にギターがあったので何度か弾いてみたんですけど、指も痛いし諦めていたんです。でも高校に入って、学校がつまらないなと思って、ほこり被ったギターを弾いてみたら、あれ、意外と弾けるなっていう(笑)。なぜかそのとき、ぽろんと弾けるようになっていたのは大きかったです。

-山崎さんと大橋さんはどういうバンドが好きだったんですか。

山崎:僕も原点は今とは全然違って、L'Arc~en~Cielとかが好きでしたね。そこからだんだんとRADWIMPSとかBUMP OF CHICKENを聴き始めて。最初は高校の先輩とかとバンドを組んだんですけど、そこではそのときに人気だったバンド、KANA-BOONとかをコピーしてました。

大橋:最初山崎に誘われたときは、全然バンドというものを知らなくて。小学校2、3年生から中学校3年生までピアノをやっていて、クラシックしか知らなかったんです。ただ誘われた頃にたまたま、"すごい名前だな"っていうので、ゲスの極み乙女。を聴いたんです(笑)。それまでは"バンドといえばギター"という印象が強かったんですけど、ピアノがいるバンドもあるんだなと知って。そういうタイミングでバンドに誘われて、自分も始めたんです。なので、影響を受けたバンドというのはあまりいないですね。

-山崎さんと大橋さんはお互いに、中学時代はどんな印象を持っていたんですか。

大橋:部活やクラスが一緒だったんです。

山崎:大橋は合唱コンクールでのイメージが強かったですね。合唱コンクールでピアノを弾いてるんですけど、それが歌を潰すくらいのピアノで。"こいつカッケーな"って思っていて(笑)。学校生活でも仲が良かったし、高校に入っても一緒にゲームとかをやる仲で、だからバンドにも誘ったという感じでした。

-では、ライヴハウスでAKIさんに会ったときの印象って覚えてますか。

山崎:最初に会ったときは、楽譜を立てて弾き語りしていたんですよね。ライヴで、カポを忘れて帰ったりしてて、面白いやつだなって思っていたんです。しかも、高校生でカバー・バンドばかりの中でオリジナルを歌っていたので、ひと際目立ってたかな。

-萩谷さんは最後に加入するわけですが、ヒヨリノアメとはどんなふうに出会ったんですか。

萩谷:実は、AKIの弾き語りの初ライヴと、僕が高校時代に初めてオリジナル・バンドを組んでやったライヴが一緒だったんです。しかもふたりとも人見知りで、お互いライヴハウスの隅の方にいて。AKIがひとりっぽかったので、話し掛けたのが出会いでした。

AKI:まったく知り合いがいなくて。俺は当時、ライヴハウスに電話してそのイベントに出たんです。今考えると、そんな高校生なかなかいないだろうなと思うんですけど。ライヴがしたくて、ネットで"ライヴハウス 茨城"って調べたら、水戸SONICっていうライヴハウスのホームページが出てきて、そこに"出演者募集"って書いてあったから、"ライヴしたいんですけど"って電話したんです。"いくつ?"って聞かれて"16歳です"って言ったら、"ちょうど年末にいいのがあるよ"っていうことで出演することになったんですけど、それが、高校生のイベントでは年間で一番人が入るイベントで。ライヴハウスってこんなにすごいんだ!? っていう体験をして。

-それを味わったら、そこからが大変だ(笑)。

AKI:最高だなって思いましたね(笑)。でも知り合いはいないし、ライヴハウスの人も電話でしか話したことがなかったから。そういう状況で話し掛けてくれたから、それだけで(萩谷が)大好きになっちゃったんですよ。お互いに口数が少なかったので、何か話すっていうよりは一緒にライヴを観ていた感じでしたけどね。お互いの高校も知らなかったし、いつから音楽やってるっていう話もしてなくて。

萩谷:ただ一緒にいるっていうだけでね。

-同じような空気を持ってるなと思ったんですね。萩谷さんのバンドはどういうバンドだったんですか。

萩谷:3ピースの、歌を大事にしてるようなバンドでしたね。曲はヴォーカルが書いていて、みんなでアレンジして作っていました。ヒヨリノアメとは何度か対バンすることがあって、ヒヨリノアメが地元で企画ライヴをするときも毎回呼んでくれていたんです。

AKI:水戸で一番仲が良かったバンドでした。

萩谷:一緒に遠征に行ったりもしたしね。で、自分のバンドが活動しなくなってしまうというタイミングのときも、対バンをしていて。打ち上げ会場のトイレで、ドラムのザキヤマ(山崎)が"うちで弾いてくれない?"って言ってくれて。

AKI:そのとき、お互いにピンチの状態だったんです。萩谷はバンドがなくなっちゃいそうだったし。俺らは俺らで、高校を卒業したらみんなで上京しようと言っていたんですけど、高3の夏にベースが抜けてしまって。ベースがいないまま、3人で上京して。そのときは、"東京に行けばなんとかなるっしょ"と思っていたんです。いくらでも人がいるし、ライヴハウスもいっぱいあるし。でも、知り合いもゼロの状態で、それこそライヴハウスに挨拶をしに行って、"ライヴやらせてください"って言うところから始まって。それでライヴハウスの店長さんが、サポートのベースを紹介してくれて一緒にやっていたんですけど、その人も自分のバンドがあったので、たくさんは活動できなかったんです。で、その人と一緒に地元の水戸にライヴに行ったときに、ちょうどおはぎさん(萩谷)のバンドがそういう状態で。

-声を掛ける絶好のタイミングですね。

AKI:でも俺はずっと思っていたんですよ、一緒にバンドやりたいっていうのは。ただ当時はバンドがどういう状況かは外側にはわからない状態だったので。

萩谷:特に言ってなかったからね。

AKI:すごくいいバンドだったから、続けていくものとばかり思っていたんです。好きなバンドだったからこそ、なかなか一緒にやろうとは声を掛けられなかったですしね。