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INTERVIEW

Japanese

ギリシャラブ

2019年04月号掲載

ギリシャラブ

ギリシャラブ

Official Site

Member:天川 悠雅(Vo)

Interviewer:TAISHI IWAMI

ギリシャラブが2017年にリリースした1stアルバム『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』は、怪しげなメロディと脱力したサウンドが生む、掴みどころがないながらも独特の深みとコクのあるテイストが癖になる作品だった。そこから2018年のミニ・アルバム『(冬の)路上』とここに届いた2ndアルバム『悪夢へようこそ!』で、彼らは静かに大きく変化する。『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』から地続きでのギリシャラブたる魅力はそのままに、紙に水で溶いた色とりどりの絵の具を垂らしたような淡い色彩感が特徴だったサウンドが、原色系に向かっていくように、ダイレクトに伝わる力を増してきた。聞けばこの2年でフロントマン、天川悠雅は"ポップであること"と向き合うようになったと言う。それは迎合なのかインディペンデントなのか。真意やいかに。

-2017年の1stアルバム『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』と2018年の2ndミニ・アルバム『(冬の)路上』では"ポップ"に対する向き合い方が異なっているように思います。

そうですね。『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』は特に"ポップである"ということは意識していなくて、もし誰かがポップと感じたならそれはその人の感性であり、僕が意識せずとも持っていたポップ性が偶然に表れただけ。気持ちとしては、"自分が思う美しいアルバムを作れたら誰にも伝わらなくていい"くらいに思っていた作品でした。でも、『(冬の)路上』に関しては、まったくその逆と言えば逆。みんなに伝えるためにポップな作品にすることを強く意識していました。

-では『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』にあった美意識やパーソナルな音楽的嗜好を突き詰めることと、商業的に成功することの両立は難しいと考えていたのですか?

商業的に成功していなくても素晴らしい作品はたくさんあります。また、おっしゃったようなふたつの概念が両立している作品も歴史の中には多く存在する。今現在、両者が相反することだとはまったく思ってないです。

-『(冬の)路上』はレーベルを変えて、ドレスコーズの志磨遼平さんが監修する"JESUS RECORDS"からのリリースでした。ポップであることにおいて、レコーディング環境が変わって音が良くなったことは大きいと思うんです。音数は増えていますが、むしろすっきりした印象で、それぞれのパートの役割がはっきりと聴いて取れます。

そうですね。エンジニアリングが変わったことは大きかったです。でも、『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』のころに『(冬の)路上』にあるような音像を受け入れられていたかとなると、そうではない気がします。

-それはなぜですか?

初期のころは活動拠点の京都からほとんど出ることがなかったんです。京都はそこだけで完結するシーンがあって、それは音楽だけではなくカルチャー全般、そもそも生活自体がそうなんですね。京都の人って良くも悪くも、わざわざ大阪とか神戸とか外に出ることが他の土地の人と比べて割合的に少ない。それが『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』を出して、志磨遼平さんと出会ったり東京でライヴをすることが増えてきたりしたことで、音楽の聴き方が変わったわけではないですけど、"伝える"ということや、そのうえですっきりした音でいい音楽を作ることに興味がシフトしてきた感覚はあります。

-そういった経緯があって引き続き"JESUS RECORDS"からリリースする今作『悪夢へようこそ!』にもまた、これまでにはなかったベクトルがあるように思います。

『(冬の)路上』は曲単位でポップであることと向き合ったミニ・アルバムだったので、トータルでまとまりのある作品ではなかった。今回はそこと『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』に求めたアルバムとしての美しさとを、矛盾せずに両立させることができたように思います。

-天川さんの中でもっと劇的なメンタル面での変化があったような気もするのですが、どうでしょう?

ライヴの数が増えて、来てくれるお客さんも今までよりは多くなって、フィードバックの内容が広がったことは影響しているように思います。お客さんの意見を採り入れて作ったわけではないですけど、ライヴで響くかどうかに重点はありました。

-私が思ったのは、天川さんはすごく強い個性を持ちながら、例えば"この声だとこういう音楽は合わないんじゃないか"といった、ご自身の持つ可能性を閉ざすかもしれない決めつけがないんじゃないかと。

それはそうですね。

-だから、様々な音楽の要素を取り入れたり、そのマナーを折衷していったりする感覚において、オリジナルがどんどん溢れてくるようなアルバムだと思ったんです。

例えば"俺にはロックンロールしかないんだ"って思ってずっと続けているミュージシャンもいらっしゃいますし、それはひとつの美学としてカッコいいなって思うこともあります。でも僕の場合は、どんな音楽を作るかによってミュージシャンとしてのパーソナリティを獲得するという感覚が、他の人より薄いどころか、まったくないんです。とは言うものの、自分の変化を邪魔する作用みたいなものが心の中にないわけではなく、ロックなるものに縛られてる部分もあります。

-表現手段として歌を歌い、演奏する仲間とお客さんがいる。それがミュージシャンではないならなんなのでしょう。

僕が持つロックの要素にお金を払ってる人はそんなにいないような気がしていて。David Bowieのベルリン時代って別にロックではないし、彼のライヴに行く人がロックだとか、そういう人もいるとは思いますけど、そうじゃないというか。

-彼のことをジャンルとは変化していくものであることを体現している人だと感じている人、ロックとはまったく別の窓口から彼に出会った人、時代を更新し続けるアイコンとして愛している人、様々な人がいると思います。

僕がよくいろんなところで話すDamon Albarnも、BLURだけでもいろんなことをやってきたし、GORILLAZもあるし、そう考えると僕は限定的なジャンルのミュージシャンではないですね。

-となると"ロックに縛られてる部分"とは?

今回のアルバムの曲で言うと「おれは死体」によく表れているように思います。これはバンドだとかロックだとか関係なく、トラップがやりたくて作ったんです。でも、いざバンドでやるとなったときに、じゃあドラムは打ち込みでやろうとかにはならなかった。今のところは全員で演奏したかったし、そのままトラップ的な生演奏をやってもらうのもうまくいく気がしなかったんです。となると、ギリシャラブにはギタリストがふたり(取坂直人、山岡 錬)いますし、バンドではない音楽のように楽器や音の抜き差しを自由にするのは難しい。「おれは死体」はロックではないしギターも入ってないんですけど、取坂はシンセを使って、錬はiPhoneで、メインとなるシンセのフレーズを流してるんです。"いろいろ試したいけど、今の5人で演奏できることをしなきゃ"って、そのせめぎ合いですね。

-バンドでやる必要がないとは思わない。そこまで仲間にこだわる理由はなんですか?

子供のころ、例えばここにあるコップや灰皿が生きていると本気で思ってたんです。きっと落とされたら痛いんじゃないかとか、植物は生きてますけど、伐採されている木にも感情があって本当は嫌なんじゃないかとか。

-わかります。私もそうでした。

今は大人になって頭の中ではコップが痛いわけがないとわかりつつ、まだ昔の感覚が残ってるんです。スピリチュアルな領域で楽器や音楽、自分のクリエイティヴィティにいい刺激を与えたりしてくれる存在が、僕にとってはバンドなんだと思います。