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INTERVIEW

Japanese

アメノイロ。

2021年04月号掲載

アメノイロ。

Member:寺見 幸輝(Gt/Vo) 木村 洸貴(Gt) 本多 隆志(Dr)

Interviewer:吉羽 さおり

広島尾道で結成し、昨年春に拠点を東京に移したアメノイロ。が全国流通盤となるミニ・アルバム『薄れる藍の渚にて』をリリースする。今作には、時とともに薄れゆく大切な人と過ごした時間や景色が、ひとつひとつの思い出を美しく焼きつけるようなメロディや歌、シーンを鮮やかに丁寧に再現する繊細なギター・サウンドで紡がれる。いつかどこかで見た馴染みのある景色や香りが漂ってきて、懐かしい感情が湧き上がってきたり、切なさや痛さ、時に抱えている後悔があぶり出されたりと、心の柔らかな部分を突かれるアルバムだ。でも、ゆったりとしたテンポやハイトーンによる語り掛けるようなヴォーカルは優しく、柔らかい。曲の流れている間は、ちょっとした感傷や憂う気持ちも許してくれるような、心の隙間に寄り添う音楽。それをみずみずしく表現する3人だ。

-ちょうど上京したのが昨年の春、今頃だったそうですね。

寺見:そうです。ちょうど4月の末に上京してきました。

-バンドに本腰を入れようという決意の上京が、まさに最初の緊急事態宣言の真っ只中になってしまったんですね。

寺見:当初は、年明けすぐに上京しようと思っていて家も契約していたんですけど、そこでちょうどどうやらそういうウイルスがあるらしいと言われ始めて......東京に行く頃には大変なことになっていましたね。

本多:最初は、怖かったかな。家族に心配されたりもしたし。

寺見:めちゃくちゃいいライヴ、これは絶対に出たいっていうイベントが決まっていたりしたんですけど、それが結局全部なくなってしまって。

木村:昨年2月に前作『絵空事は息白と消えて e.p』をリリースして、3月にはツアーをする予定だったんですけど、それもできずじまいで。

-その間はどうしていたんですか。

本多:寺見は曲作りとかをしていたのかな。

寺見:俺はうなだれてたよ(笑)。まぁでも、僕らアメノイロ。という名前なので、梅雨の時期にはそれぞれが自分の好きな曲で雨の日に聴きたいプレイリストを作って公開したり、9月からは3ヶ月連続で自主企画"秋、夜道は月明かりを辿って"をスタートしたりという感じで、どうにか気持ちが落ちないようにとやってました。

-曲作りには影響がなかったですか。

寺見:上京したからこそ作れた曲も多かったですね。岡山に住んでいたときは車移動だったんですけど、こっちだと徒歩になるので。ミドル・テンポの曲、歩くテンポくらいの曲が好きになって、作る曲もそういうテンポの曲が多くなりました。

-今回の『薄れる藍の渚にて』の曲はいつ頃から着手したんですか。

寺見:昨年の夏くらいから作り始めたんですけど、そこで一番早くできたのが、「インスタントカメラ」という曲だったんです。ミニ・アルバムを出すというのは決まっていたので、この「インスタントカメラ」を基盤にして、この曲がミドル・テンポだから、もっとゆっくりめな曲が欲しいとか、爽やかな曲が欲しいという感じで作っていました。今回は、アルバムの曲順が朝から夜にかけてというストーリーになっているので、そのあたりも意識して聴いてもらえたら嬉しいです。

-普段どんなふうに曲作りをしているんですか。

寺見:まずアコギを持って、ノートに歌詞を書いていくところからスタートして。そこからPCでベースやドラムなども入れて、僕が80パーセントくらい作ったあとに、それぞれにいいアレンジがあればということで変えていってもらうという感じです。

-ふたりにデモを渡す際には歌詞もついているんですね。

寺見:もう乗っていますね。

-その段階ですでに曲をイメージできるものになっていると。

寺見:ある程度の形になっているので、デモを聴いて組んでもらえるというか。ふたりは歌を邪魔しないようにということは意識してくれているようです。

本多:僕らは、基本的に寺見を信じているので(笑)。あとは長い付き合いなので、デモを聴いてこれはこんな雰囲気の曲だなっていうのはわかってくるというか。そこから、ここはちょっと単調だなっていうところがあれば、手直しする程度で。ドラムも寺見の世界観を崩さずに、叩いている感じですね。

木村:僕も一緒で、寺見の歌が一番聴こえるようにというか。寺見が一番やりたいことをやりたいっていう。

-長い付き合いということですが、メンバーはどのくらいの付き合いになるんですか。

寺見:僕と隆志は大学が一緒で、僕の後輩だったんです。

本多:寺見が19歳で、僕が18歳の頃に出会って、最初は軽音楽のサークルからのスタートでしたね。

寺見:で、木村さんは違う大学だったんですけど。

木村:お世話になっているライヴハウスが一緒だったんです。そこでアメノイロ。を見て、"ええやん"ってなって。文化祭のときに"1回だけ入れてや"って言ったんです(笑)。

-他校の文化祭だったのに、積極的なアプローチをしたんですね(笑)。

寺見:そのときは"楽しかったね"で終わったんです。でも何ヶ月か経って突然、"今日、ライヴに遊びに行くわ"っていう連絡がきて。おかしいなって思って。なんでこの日に観にきたんだろうって思ってたら、"アメノイロ。に入りたいです"っていう話で。

-当時木村さんは自分のバンドがない状況だったんですか。

木村:いや......ありました(笑)。でも、こっちのほうが楽しそうだったので──

本多:裏切り者なんですよ。

木村:前のバンドから裏切り者ってめっちゃ言われました(笑)。

-そう言われながらもアメノイロ。への加入にこだわったのは。

木村:歌が良かったんです。メロディが、同年代の他のバンドや、一緒にやっていたようなバンドともちがって。寺見は同い年で話しやすいし、字はちがうけど同じ"こうき"という名前で。

寺見:そこ?

木村:それでライヴハウスの人から、別のこうきがいるっていうので最初にアメノイロ。の存在を知ったんですよね。

寺見:でもたしかに年齢がちがったら、一緒にやっていなかったかもしれない。

-それでなんとかして加入しようと狙っていたわけですね。

木村:そんな感じです。当時は、大学の暇潰しじゃないですけど、音楽が楽しくなかったので。楽しくなれるようにやろうと思っていたら、結果的にここまでこれたという感じでした。

-だからこそ、歌の持つ世界観を描き出そうというギターにもなっている。でも実際ふたりはどうだったんですか、木村さんからこのバンドに入りたいんだっていうアプローチを受けて。

寺見:3ピース(※2020年4月に脱退した嶋田雅也(Ba)と寺見、本多の3人)でやっていた当時から、描きたい世界観はギターがもう1本欲しいなという感じだったんです。ひとりで歌もギターも頑張っていたので。なので、僕は全然悩んだりしなかったんですけど。わりと隆志のほうがうーんっていうのがあったのかな。"俺が見えねぇ"って渋ってたので。

-3ピースだとライヴのときにドラムの前にヴォーカルが立つことがないですもんね(笑)。

本多:そうです(笑)。でも途中から、やっぱりキム(木村)がいるなって思って。

木村:入れようって言ってくれました。

-メロディや歌の世界観という話がでましたが、どういうものを描いていきたいかというのは曲を書き始めた頃から変遷などはありますか。

寺見:徐々に明確になってきていると思います。漠然と失恋の歌を書いていたんですけど。作るにつれて段々と、聴いていて見えてくる映像というのがわかりやすくなってきたなって自分で思います。

-なんで失恋の歌が中心に?

寺見:もともとは、こういう失恋の歌を描きたいからバンドを始めましたという感じでもなくて。最初は大学のサークルでコピー・バンドを始めて、お世話になっていた尾道BxBというライヴハウスの店長の今谷(修司)さんが言った"オリジナルやっちゃえよ"っていう言葉で、何もわからない状態からオリジナル曲を作り始めて。最初にバーっと書いていたのが失恋の歌だったんです。なので今さら、餃子食べたいなとかの歌を書くのもちがうかなって(笑)。

-失恋の曲やそこに漂う切なさっていうのは、自分でもしっくりくるなという感触で。

寺見:そうですね。

-それが今はいろんな角度から描けるようになっていますよね。自分視点だけでない、相手の目線でのストーリーがあったりして、ドラマとして描けるようになっているなと今回を聴いて思います。今回のアルバムを作るに当たっては、どんなことを大事にしましたか。

寺見:今回コロナでいろんなライヴやツアーがなくなってしまって、会いに行けなかったぶん、自分たちの日常を描きながら、聴いてくれる人に寄り添いたいなという思いはありました。