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WRITERS' COLUMN

編集部 山元 翔一の『ワイルドサイドを歩け』

2016年04月号掲載

編集部 山元 翔一の『ワイルドサイドを歩け』

"ロックンロール・バンドなんかに君の人生をゆだねたりはしないでくれ"
 
あるロック・シンガーはこのように歌った。当コラムを読んでいただいている読者の方には、この一節、思い当たるところがあるのではないだろうか。ロックンロールとは何か? ある人は精神だと言い、またある人は生き様だと言う。ただの音楽における1つの形態に過ぎないという人もいるだろう。これといった答えはなく、転がり続けることだけが真実かといえばそれもそうなのかもしれない。とにかく答えは風の中、だ。
 
音楽は楽しい。当たり前だ。でも当たり前のことほど僕らは簡単に忘れてしまうし、見失ってしまう。だが音楽は楽しいだけのものかと言えば、決してそうではない。個人的な話をすれば、多くのものに触れ、様々な経験を重ねるにつれ、"音楽は楽しい"と純粋に感じることは少なくなった。大なり小なり多く人が直面する事実であるかと思うが、それは単純に悲観すべきことであるとも言えない。ただ、確かなことがあるとすれば、"楽しい"という感情の先を見てしまった場合、かなりの確率で引き返すことはできなくなってしまうということ。そして、1人でも多くの人にその先を知ってほしいという願いを込めて戦う人間がいる、ということだ。
 
音楽に、ロックンロールに、すべてを捧げ生きる男の姿は美しい。3月19日、横浜Bay Hallの舞台には美しく生きて死ぬだけの人生を背負い給う一人の男の姿があった。その男の名は志磨遼平。彼のことを少しでも知る人であればおわかりであろうが、彼の音楽は楽しいとか、楽しくないとかそういう次元ではない。ひと言で言えば、志磨遼平の音楽は芸術だ。そして同時に、その気高い精神の写し鏡のようであり、強かな生き様そのもののようである。美しく生きる男を前にすると、否が応でも背筋が伸びるものだ。それもロックンロールのひとつの作用なのだろう。
 
ある作家は、"本当にいいものはとても少ない"と語る。たしかにその通りではあるのだが、他人がペテンやフェイク、ニセモノと罵ろうとも、あなたはあなただけの特別なものを探せばいい、とここでは書き残しておきたい。他でもないあなたが見つけて、選んだ、その音楽を大切に思う気持ちだけは忘れないでほしい。
 
"ワイルドサイドを歩け"と題したこのコラムは今回で最後を迎える。6回という短い連載ではあったが、読者ひとりひとりに、あなただけの"ワイルドサイド"を歩んでほしいという願いをひっそりと込めて書き綴らせていただいた。春は出会いと別れの季節だ。これを読んでいるあなたの訪れた新しい出会いと別れ、そして新しい環境、新しい生活。そのかけがえのないひとつひとつを抱きしめてほしい。そうやって生きるあなたの道程が、音楽とともにあらんことを僕は願ってやまない。