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INTERVIEW

Japanese

memento森

2016年12月号掲載

memento森

Member:宮地 慧(Vo) 榎本 欣司(Gt) 木原 潤(Ba) 新形 耕平(Dr)

Interviewer:秦 理絵

"原初の混沌"という意味を持つヘブライ語"Tohu-Bohu"をタイトルに冠した、memento森の初の全国流通盤となるアルバムが11月2日にリリースされた。現在の4人体制になり、バンドが鳴らすべき音の方向性を模索しながら完成させた今作は、ヒップホップを始め、レゲエ、パンク、ロック、プログレ、EDM、シティ・ポップの要素も取り入れた、2016年型のミクスチャー・ロック・アルバムだ。かつてバンドが築き上げた栄光をすべて捨て去り、ゼロからの再出発を誓った彼らは、失ったからこそ気づけた大切なものを泥臭い音楽に込めて叫んでいる。この平和で満たされた日本で年間に何万人もの自殺者がいるという歪んだ構造。必要なのは弱さを認めて生きることだと、自分たち流の思想を掲げる4人に話を訊いた。

-ライヴでは宮地さんがフリー・スタイルでラップを披露してますけど、音楽のルーツとしては、ヒップホップが原点なんですか? それともミクスチャー・ロック?

宮地:もともと音楽を始めたのは、中学生のときにDragon Ashにハマッたのがきっかけですね。そこからずっと僕はミクスチャー・バンドがやりたくて。でも、周りはメロコアとかX JAPANのコピー・バンドばっかり。それで、高校に入ってからは普通にTHE BLUE HEARTSとかのコピーをやり始めたんですけど、ラップとかいろいろミックスした音楽をやりたいっていうのがやっぱりあって、あとからヒップホップを始めたんです。今になって、関西で開催されてるフリー・スタイルのバトル・イベントにも出てますけど。バリバリのB-BOYのなかに、ひとりだけバンドマンとして乗り込んでいってます。

-memento森の結成は2008年。そのころからバンドは"memento森"を名乗っていたけども、人数は6人編成で、今とはまったく違うメンバーでしたよね?

宮地:オリジナル・メンバーは僕だけですね。で、そのあとにベースがふたり抜けて、彼(木原)が一番古いメンバーなんです。

木原:2010年ぐらいから一緒にやってるので、6年ぐらいですね。

宮地:自分でメンバーを変えるって決めたんですけど、やっぱりうまくいかないことも多くて。彼(木原)は一番苦楽を共にしてる女房役なんです。

-そこから宮地さんと木原さんのふたりで今のメンバーを集めていったんですか?

宮地:木原と彼(新形)が大学生のとき一緒にバンドをやってたんですよ。

新形:自分は実家が四国なんですけど、大学を卒業して地元に帰ってたんです。音楽はたまに遊びでスタジオに入ってるぐらいだったんですけど、ある日、木原から"飲みに行こうよ"って連絡があって。"memento、入れへん?"って誘われたんです。

宮地:俺は居合わせてなかったんですけど、ふたつ返事でOKしたみたいです。

木原:時期的に良かったんです。彼(新形)も大学生のときに組んでたバンドをやめて、それから1年ぐらい空いたんですけど、たぶんずっとバンドがやりたかったんでしょうね。

-榎本さんは、どういう経緯で加入したんですか?

榎本:僕はドラムの新形が入って、ちょっとしてから宮地に誘われました。

宮地:彼(榎本)とは高2のときから付き合いがあったんですよ。高校を卒業してから一時、ほんの半年ぐらいですけど、一緒にバンドをやってた時期もあって。

榎本:そのバンドを抜けて、違うバンドでベースをやってたんですけど、それもやめて。声を掛けてもらったときは、何も音楽をやってなかったんです。

宮地:だからちょっと慎重でしたね。それで、まずはサポートという形で入ってもらって。救済措置的に"とりあえず1回、一緒にやってみよう"っていうノリで始まったんです。

-そこから正式メンバーになったのは、どういうタイミングで?

宮地:特に"今日から正式に"みたいなのはなかったよね。

榎本:俺は言ったよ。"今日から正式に入ります"って。

木原:もう忘れてる(笑)。

宮地:"ギタリストどうしようか?"っていうときに、この3人でギタリストを何人か呼んでスタジオに入ったんですよ。そのときから"こいつや!"と思ってたから。

木原:だから"今日から入ります"って言われても、"何を言うてるんや?"と。

宮地:ずっと正式メンバーやと思ってたからね。

-ちょっと話が遡ってしまいますが、さっき言ってた、6人編成のときに自分でメンバーを変えるって決めたというのは、どういう心境だったんですか?

宮地:6人編成のときは、今みたいなドラム、ベース、ギターっていう通常のバンド編成プラス、アコースティック・ギターとパーカッションがいたんです。その話を辿ると、memento森を結成するときっていうのは、もともと榎本と組んでたバンドが解散になって、でもイベントに誘ってもらってたのもあって。じゃあ、ちょっと新しくバンドを組みますってなったのがきっかけなんです。そのとき、僕はバンドをふたつやってて。ひとつがアコースティックの"アゴの下のポニョ"(笑)。もうひとつが、僕がギター・ヴォーカルでドラムとベースがいた"ドテキング"。そのふたつを合体させて、もうひとりギタリストを呼んで6人編成になったのがmemento森なんですね。だから、完全に見切り発車だったんですよ。

-なるほど。

宮地:それを3年ぐらいやっていくうちに、限界を感じ始めたというか。メンバーそれぞれの方向性もそうですし、アコースティック・ギターとパーカッションがおると、それに合わせたアレンジになるんです。そこが窮屈だったんですよね。もっとソリッドなバンドをやりたかったし、そのころは見え方的にも"僕のプロジェクト"みたいになってたので。ポエトリー・リーディングの世界観を丸出しにしてたんですけど、それよりも一体感のある音の塊みたいなものを出したいっていうふうになってきて。それで、メンバーを1回バラそうと思ったんです。